パレンバン空挺作戦 | 戦車兵のブログ

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2月14日はパレンバン空挺作戦があった日です。

 

1942年2月14日、第二次世界大戦の蘭印作戦において、大日本帝国陸軍挺進第2連隊(落下傘部隊)がスマトラ島パレンバンに奇襲攻撃を敢行した日。

 

パレンバン空挺作戦があった日である。

 

 

 

スマトラ島のパレンバンは蘭印最大かつ東南アジア有数の大油田地帯であり、ロイヤル・ダッチ・シェルが操業する製油所とともに太平洋戦争における日本軍の最重要攻略目標であった。

 

 

 

パレンバンはムシ川の河口からおよそ100キロの内陸に位置するため、陸軍の大発等上陸用舟艇による攻撃では川を遡上している間に油田設備を破壊されるおそれがあり、これを避ける為にはまず空挺攻撃によってこれを奇襲占領し、次いで地上部隊をもって確保する作戦が望ましいと考えられた。

 

 

 

こうして第1挺進団(団長:久米精一大佐)が空挺降下し第38師団主力(歩兵第229連隊基幹、兵力 12,360名)が支援する陸軍初の空挺作戦が立案された。

 

但し、第1挺進団は挺進第1、第2連隊を有していたものの、挺進第1連隊は1月3日に乗船「明光丸」が積載品の自然発火を起こして沈没し、人員は護衛の駆逐艦に救助されたが兵器資材の全てを失っていた。

 

この為空挺降下は挺進第2連隊の329名のみで実施されることになった。

 

 

 

2月14日、降下部隊第1悌団の挺進兵らは、挺進飛行戦隊の一〇〇式輸送機やロ式輸送機に搭乗しマレー半島を飛び立ち、直掩機の「加藤隼戦闘隊」こと飛行第64戦隊と飛行第59戦隊の一式戦闘機「隼」等と共にパレンバンに向かった。陥落直前のシンガポールから立ち上る黒煙がはるか南までたなびき視界は不良であった。

 

 

 

11時30分、降下部隊はパレンバンの市街地北方10キロにある飛行場の東西両側に落下傘降下、同時に久米大佐を載せた団長機が湿地帯に強行着陸し、これは完全な奇襲作戦となった。

 

 

 

これより前、ハドソンやブレニムからなる連合軍の飛行部隊はスマトラ島上陸に向かう第38師団の輸送船団の攻撃に出払っており、これら爆撃機の掩護を終えてパレンバン飛行場に帰還してきた15機のハリケーンは降下前の輸送機群に接近した。

 

 

 

 

しかしながら飛行部隊も日本軍の空挺作戦発動に全く気づかず、無線交信が上手く使えず断雲で視界が悪い為編隊がバラバラになり、またロ式輸送機を連合軍のハドソンと誤認(ともにL-14 スーパーエレクトラのライセンス生産型および派生型)していたことから迎撃は後手に回った。


不意を突かれた飛行場からは守備隊の高射砲が火を噴き、ハリケーンと第64戦隊の一式戦「隼」との間に空中戦が発生、ハリケーンはマクナマラ少尉機とマッカロック少尉機の2機が撃墜され、また2機が燃料切れで不時着し残りの機は敗走したが一式戦「隼」に損害は無かった(撃墜2機のうち、1機は戦隊長加藤建夫少佐の戦果とされる)。

 

 

 

降下部隊は逐次集結しつつ飛行場へ殺到したものの、飛行第98戦隊の九七式重爆撃機から別投下した火器・弾薬が入手できず、携行した拳銃と手榴弾のみで戦闘せざるを得ない挺進兵も多かった。

 

 

 

市街地からは連合軍の装甲車部隊約500名が到着し激戦となったが、降下部隊は21時までに飛行場を確保した。

 

 

 

翌15日午後、第2悌団がパレンバン市街地南側の湿地に降下し、第1悌団と協力してパレンバン市街に突入、同市を占領した。

 

 

 

戦果としては石油25万トン、英米機若干とその他の兵器資材を鹵獲し、放火により油田設備の一部に火災が発生したものの大規模破壊は避けられた。

 

 

 


死傷者は、降下人員329名中、戦死39名、戦傷入院37名、戦傷在隊11名であった。

 

第38師団主力も14日にバンカ島に到着、15日に先遣隊がパレンバンに到着した。

 

師団主力は18日にパレンバンに到着、周辺地域を確保し空挺作戦の目的を完全に達成した。

 

 

戦果は翌日の大本営発表第192号にて以下のように発表された。

 

「大本営発表、2月15日午後5時10分。強力なる帝国陸軍落下傘部隊は、2月14日午前11時26分、蘭印最大の油田地帯たる、スマトラ島パレンバンに対する奇襲降下に成功し、敵を撃破して、飛行場その他の要地を占領確保するとともに、更に戦果を拡張中なり。陸軍航空部隊は本作戦に密接に協力するとともに、すでにその一部は本15日午前同地飛行場に躍進せり。終わり」

 

 

 

陸軍落下傘部隊は「空の神兵」として大いに喧伝され、のちに作られた映画や軍歌のヒットと合わせて国民に広く知られ親しまれることになる。

 

 

 

 

 

空 の 神 兵

 


作詩 梅本三郎  作曲 高木東六

 

1 藍より蒼き 大空に大空に
  忽(たちま)ち開く 百千の
  真白き薔薇の 花模様
  見よ落下傘 空に降り
  見よ落下傘 空を征(ゆ)く
  見よ落下傘 空を征く

 

2 世紀の華よ 落下傘落下傘
  その純白に 赤き血を
  捧げて悔いぬ 奇襲隊
  この青空も 敵の空
  この山河(やまかわ)も敵の陣
  この山河も敵の陣

 


3 敵撃摧(げきさい)と 舞い降(くだ)る舞い降る
  まなじり高き つわものの
  いづくか見ゆる 幼顔(おさながお)
  ああ純白の 花負いて
  ああ青雲に 花負いて
  ああ青雲に 花負いて

 


4 讃(たた)えよ空の 神兵を神兵を
  肉弾粉と 砕くとも
  撃ちてし止まぬ 大和魂(だま)
  我が丈夫(ますらお)は 天降(あまくだ)る
  我が皇軍は 天降る
  我が皇軍は 天降る

 

 

この『空の神兵』は、帝国陸軍落下傘部隊(第1挺進集団)の事実上の後身である陸上自衛隊第1空挺団にも継承されている。

 

 

 

第1空挺団は衣笠駿雄元陸軍少佐に率いられた第1次研究員20名によって創設されたものであるが、この第1次研究員20名こそが太平洋戦争末期に帝国陸軍落下傘部隊において教育途中であった元挺進兵であった。

 

 

そのため帝国陸軍落下傘部隊の歴史は陸上自衛隊落下傘部隊の歴史とされ、その伝統を堂々と継承している第1空挺団の事実上の隊歌として使用、富士総合火力演習や各駐屯地祭などの降下展示の際に音楽隊により演奏またはBGMが流される。

 

 

ただし、自衛隊においては歌詞のうち4番が流されることは公式の場においてはない。

 

これは4番の歌詞には「神兵」及び「皇軍」という、憲法の制約上“軍隊ではない”とされる自衛隊においてはふさわしくないとされる部分があるためである。