アメリカから見た特攻隊 特攻作戦第一号神風特攻隊敷島隊 | 戦車兵のブログ

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神風特別攻撃隊は、大東亜戦争で大日本帝国海軍が体当たり戦法のため編制した、特別攻撃隊。

 

略称は「神風」、「神風特攻隊」、「特攻隊」。

 

神風」は猪口力平が名付けた「しんぷう」が正式な読み方であるが、当時のニュース映画が誤って「かみかぜ」と読み上映したことで「かみかぜ」が定着した。

 

 

1944年(昭和19年)10月5日、大西瀧治郎が第一航空艦隊司令長官に内定すると、軍需局を去る際に局員だった杉山利一に対して「向こう(第一航空艦隊)に行ったら、必ず(特攻を)やるからお前らも後から来い」と声をかけた。これを聞いた杉山は、大西自らが真っ先に体当たり特攻を決行するだろうと直感したという。

 

 

大西は出発前、海軍省で海軍大臣米内光政大将に「フィリピンを最後にする」と特攻を行う決意を伝えて承認を得ていた。

 

 

また、及川古志郎軍令部総長に対しても決意を語ったが、及川は「決して(特攻の)命令はしないように。(戦死者の)処遇に関しては考慮します」「(特攻の)指示はしないが、現地の自発的実施には反対しない」と承認した。

 

それに対して大西は「中央からは何も指示をしないように」と希望した。

 

大西は、軍令部航空部員源田実中佐に戦力を持って行きたいと相談するが、源田は現在それが無いことを告げ、その代わりとして零戦150機を準備すると約束した。

 

その際にも、大西は場合によっては特攻を行うという決意を話した。

 

 

 

1944年(昭和19年)10月19日夕刻、マバラカット飛行場第201海軍航空隊本部で大西、201空副長玉井浅一中佐、一航艦首席参謀猪口力平、二十六航空戦隊参謀兼一航艦参謀吉岡忠一中佐が集合し、特攻隊編成に関する会議を開いた。

 

 

大西は「空母を一週間くらい使用不能にし、捷一号作戦を成功させるため、零戦に250kg爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法は無いと思うがどうだろう」と提案した。

 

これに対して玉井は、山本が不在だったために「自分だけでは決められない」と返答したが、大西は小田原が山本と面会して既に同意を得ていることを伝え、同時に特攻を決行するかは玉井に一任した。

 

玉井は時間をもらい、飛行隊長指宿正信大尉・横山岳夫大尉と相談した結果、体当たり攻撃を決意して大西にその旨を伝えたが、その際に特攻隊の編成は航空隊側に一任して欲しいと大西に要望し、大西はそれを許可した。

 

 

「指揮官の選定は海軍兵学校出身者を」という猪口の意向を受け、玉井は関行男を指名した。

 

猪口によれば、関は指名された際にその場で熟考の後「ぜひやらせて下さい」と即答したというが、玉井によれば、関は「一晩考えさせて下さい」と即答を避け、翌朝になって承諾する返事をしたと語った。

 

いずれにせよ、関は特攻隊指揮官の指名を受けた後に自室へ戻って遺書を書き終え、海軍報道班員のインタビューに対して「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて」「KA(妻)をアメ公(アメリカ)から守るために死ぬ」と語った。

 

 

 

特攻隊の編成を一任された玉井は、自分が育成した甲飛10期生を中心に33名を集めて特攻の志願を募り、最終的に24名の特攻隊を編成した。

 

飛行長だった中島正によると、特攻の編成はだいたいこれだと思うものを集めて志願を募っていたという。

 

 

玉井は戦後の回想で、大西の特攻に対する決意と必要性を説明した後に志願を募ると、皆が喜びの感激に目をキラキラさせて全員が挙手して志願したと話している。

 

しかし、志願した山桜隊・高橋保男によれば「もろ手を挙げて(特攻に)志願した。意気高揚」、同じく志願者の井上武によれば「中央は特攻に消極的だったため、現場には不平不満があり、やる気が失せていた。

 

 

現場では体当たり攻撃するくらいじゃないとだめと考えていた。

 

志願は親しんだ上官の玉井だったからこそ抵抗なかった」という。

 

一方で、志願者の中には特攻の話を聞かされて一同が黙り込む中、玉井が「行くのか?行かんのか?」と叫んだことで一同の手がすぐに上がったと証言する者もおり、志願した浜崎勇は「仕方なくしぶしぶ手をあげた」、佐伯美津男は「強制ではないと説明された。零戦を100機近く失った201空の責任上の戦法で後に広がるとは思わなかった」と話している。

 

 

猪口は、郷里の道場である「神風(しんぷう)流」から名前を取り、特攻隊の名称を「神風特別攻撃隊」と提案し、玉井も「神風を起こさなければならない」と同意して大西がそれを認めた。

 

また大西は、各隊に本居宣長の歌「敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂ふ 山桜花」から敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊と命名した。

 

 

 

1944年(昭和19年)10月20日午前10時、大西が神風特攻隊の訓示と命名式を行い、初の特攻隊である敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊が編成された。

 

大西は敷島隊に「日本は今、危機でありこの危機を救えるのは若者のみである。したがって国民に代わりお願いする。皆はもう神であるから世俗的欲望はないだろうが、自分は特攻が上聞に達するようにする」と訓示した。

 

同日、一航艦司令部に帰った大西は神風特攻隊編成命令書の起案を副官の門司親徳に命じたが、門司は不慣れであったため、大西と猪口も手伝って起案され、命令書は、連合艦隊、軍令部、海軍省など中央各所に発信された。

 

機密第202359番電 1944年10月20日発信


「体当り攻撃隊を編成す」


1. 現戦局に鑑み艦上戦闘機26機(現有兵力)をもって体当り攻撃隊を編成す(体当り13機)。本攻撃はこれを四隊に区分し、
敵機動部隊東方海面出現の場合、これが必殺(少くとも使用不能の程度)を期す。成果は水上部隊突入前にこれを期待す。


今後艦戦の増強を得次第編成を拡大の予定。本攻撃隊を神風特別攻撃隊と呼称す。

 


2. 201空司令は現有兵力をもって体当り特別攻撃隊を編成し、なるべく十月二十五日までに比島東方海面の敵機動部隊を殲滅すべし。


司令は今後の増強兵力をもってする特別攻撃隊の編成をあらかじめ準備すべし。


3. 編成 指揮官海軍大尉関行男。


4. 各隊の名称を敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊とす。

 

 

 

神風特別攻撃隊敷島隊指揮官の関行男は、海兵70期。

 

レイテ沖海戦において、初の神風特別攻撃隊の一隊である「敷島隊」の隊長として特攻し、アメリカ海軍の護衛空母セント・ローを撃沈したことで、死後「敷島隊五軍神」の1人として顕彰された。

 

特攻による二階級特進で最終階級は海軍中佐。

 

 

1944年1月、霞ヶ浦海軍航空隊付、飛行教官に就任。

 

1944年5月1日海軍大尉に進級。

 

1944年5月11日に婚姻願を提出、5月26日に海軍大臣の許可が下りる。

 

5月31日、関は福永恭助退役海軍少佐夫妻の媒酌のもと、渡辺満里子との結婚式を水交社で執り行った。

 

 

1944年6月マリアナ沖海戦(あ号作戦)の翌々日、関は練習生に向かって「あ号作戦の敗北は知っているだろう。もうこうなったら爆弾を抱いて体当たりするしかない。お前らにそれができるか」と話したという。

 

1944年9月、台南海軍航空隊の教官に着任。

 

富士栄一によれば、9月末ごろ、搭乗員に対して一人子、妻帯者は外れろという指示がまずあり、誰も出ていかないと、続けてフィリピンで特攻をやるので志願するものは上司に願書を出すようにという話があったという。

 

富士は願書を持って行く際に飛行長の前で関に会い、二人は笑って「いよいよしょうがないですな」と話し、二人で願書を提出したという。

 

砂原大尉によれば、戸塚浩二大尉と関大尉との3人の間で、「特攻といっても決死隊と爆弾を抱えて突っ込んでいくのとあるが爆弾かな」という会話があり、関は手紙で知らせると言い、後で来た手紙には「その通り」とだけ書いてあったという。

 

9月25日、第二〇一海軍航空隊に赴任。

 

台湾沖航空戦で戦死した鈴木宇三郎海軍大尉の後任として、戦闘三〇一飛行隊長となった。

 

関の赴任は零戦による降下訓練のためと発表されていたが、搭乗員の間では特攻の指揮官として呼ばれたものと考えられていた。

 

 

特攻隊の指揮官は海軍兵学校出身者の士官搭乗員から選ぶもので、これは猪口の提案であった。

 

猪口の構想では、指揮官には当初第三〇六飛行隊長で、関の同期である菅野を考えていたが、菅野も日本へ機材受領に赴き不在であったため、関が攻撃隊指揮官として選出されることになる。

 

その理由として、関が着任時に玉井に挨拶した際に「内地から張り切って戦地にやってきた風」のような感じを与えていたことや、何度も出撃への参加を志願していたことが強い印象として残っていたからだと、玉井は後年になって回想している。

 

猪口とは多くは語らなかったが、猪口の「君(関)はまだチョンガー(独身)だったな」という問いかけに対して「いえ、結婚しております」と答えたという。

 

玉井と猪口は待機していた大西の下に向かい、隊員24名を選び、関を攻撃隊指揮官としたことを報告した後、隊の名前を「神風特別攻撃隊」と命名するよう願い出て、大西に了承された。

 

 

 

神風特別攻撃隊の初出撃は同年10月21日で、敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊の計24機が出撃したが、同日は悪天候などに阻まれてほぼ全機が帰還したものの、大和隊隊長・久納好孚中尉が未帰還となった。

 

そのため、「特攻第1号」は敷島隊隊長・関行男ではなく、大和隊隊長・久納好孚中尉を未確認ながら第一号とする主張も戦後現れた。

 

 

各隊は出撃を連日繰り返すも全て空振りに終わり、同月23日には大和隊・佐藤馨上飛曹が未帰還となる。

 

そして同月10月25日午前10時49分、敷島隊指揮官の関(戦死後中佐)以下6機が護衛空母セント・ローを撃沈し、初戦果を挙げて活路を開いたが、突入する水上部隊だった第一遊撃部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官、戦艦大和座乗)が突然反転したため、特攻戦果は作戦成功にはつながらなかった。

 

 

第一航空艦隊航空参謀・吉岡忠一中佐によれば「久納の出撃は天候が悪く到達できず、山か海に落ちたと想像するしかなかった」「編成の際に指揮官として関を指名した時から関が1号で、順番がどうであれそれに変わりはないと見るべき」という。

 

軍令部部員・奥宮正武によれば、久納未帰還の発表が遅れたのは、生きていた場合のことを考えた連合艦隊航空参謀・淵田美津雄大佐の慎重な処置ではないかという。

 

 

また、久納が予備学生であったことから予備学生軽視海兵学校重視の処置とではないかとする意見に対し「当時は目標が空母で、帰還機もあり、空母も見ていない、米側も被害がないので1号とは言えなかった。10月27日に目標が拡大したことで長官が加えた」と話している。

 

 

大西は「神風特攻隊が体当たりを決行し、大きな戦果を挙げた。自分は、日本が勝つ道はこれ以外にないと信ずるので今後も特攻を続ける。反対するものは、たたき斬る」と語った。

 

 

 

10月20日午前10時、第一航空艦隊長官に着任した大西瀧治郎によって最初の神風特別攻撃隊に訓示と命名式が行われた。

 

本居宣長の古歌より命名された「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」で、各隊3機ずつ配分された。

 

この四隊から漏れた甲十期生は別途「菊水隊」へ編入された。

 

この時点で関はどの隊にも属せず、総指揮官として一種の独立した立場に置かれていた。

 

「敷島隊」のオリジナルメンバーは中野磐雄(戦三〇一)、谷暢夫(戦三〇五)、山下憲行(戦三〇一)の3名で、いずれも一飛曹だった。

 

関と敷島・大和・朝日・山桜の各隊員と直掩隊員が二〇一空本部前に整列し、大西が隊員の前に現れて訓示を述べた握手を行った後、関と敷島・大和両隊はマバラカット西飛行場に、朝日・山桜両隊はマバラカット東飛行場それぞれ移動して出撃の時を待つ事となった。

 

大西は「日本は今、危機でありこの危機を救えるのは若者のみである。したがって国民に代わりお願いする。皆はもう神であるから世俗的欲望はないだろうが、自分は特攻が上聞に達するようにする」と訓示した。大西はマニラに戻った後にこの神風特攻隊編成の命令書を起案させて、連合艦隊、軍令部、海軍省など中央各所に発信した。

 

 

午後になって大西はマニラに戻ったが、その前にマバラカット西飛行場にて関と敷島・大和両隊隊員と最後の対面を行い、別れの水杯を交わしたり雑談を行った後、マニラに向かった。

 

また、大和隊(隊長・久納好孚海軍中尉(法政大学出身))は20日夕方に二〇一空飛行長中島正少佐に率いられセブに移動していった。

 

 

 

 

同日、同盟通信社の記者で海軍報道班員の小野田政は、関の談話を取ろうと関の部屋に入ったが、前日の夜に隊長指名を受けた関はこの時、顔面を蒼白にして厳しい表情をしつつピストルを小野田に突きつけ、「お前はなんだ、こんなところへきてはいかん」と怒鳴った。

 

小野田が身分氏名を明かすとピストルを引っ込めた。

 

この行動は「異常な心的状況の中に身を置いていた」が故の「異常な行動」という推測もある。

 

少し後、関と小野田は外に出て、マバラカット西飛行場の傍を流れるバンバン川の畔で、関は小野田に対して次のように語った。

 

『 報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある。僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍の隠語で妻)のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。僕は彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ。素晴らしいだろう。 — 関行男、マバラカット基地近くのバンバン川にて』

 

この発言の前半部分は、元は艦上爆撃機搭乗員としてのプライドから出た不満であり。

 

後半は妻の満里子や母のサカエのことを想起した発言で、承諾の言葉である「ぜひ、私にやらせて下さい」は、「自らの内奥に相剋する想念の全てを一瞬のうちに止揚して」発した発言という指摘もある。

 

 

関は宿舎で満里子宛およびサカエ宛の遺書をしたため、満里子の親族に対するお礼や、教官時代の教え子に対しては「教へ子は 散れ山桜 此の如くに」との辞世を残した。

 

また、この日に日本から戻ってきたばかりの菅野にも不満や残る家族への思いを打ち明けた。

 

10月20日は、敵艦隊発見の情報なく暮れていった。

 

 

10月21日朝、一〇〇式司令部偵察機がレイテ島東方洋上でアメリカ機動部隊を発見し、これを報じる。

 

敵艦隊発見の報を受けて敷島・朝日・山桜の各隊員が指揮所に移動し、出撃は敷島・朝日の二隊に決定する。

 

 

この時点から関は「敷島隊」の隊長も兼任するようになり、「敷島隊」も永峰肇飛長(丙種飛行予科練習生15期)が加えられて総勢5名となった。

 

関は玉井に遺髪を託し、9時に僚機を伴ってマバラカット西飛行場を発進した。

 

日本映画社・稲垣浩邦カメラマンが撮影した、前日の大西との訣別とこの日の出撃を組み合わせた映像が、日本ニュース第232号「神風特別攻撃隊」として公開された。

 

マバラカット東飛行場から発進した「朝日隊」と合流して敵艦隊を目指すも見つけられず、燃料状況から攻撃を断念してレガスピに引き返した。

 

関は10月22日早朝、「敷島隊」と「朝日隊」を率いてマバラカットに帰投し、玉井に「相済みません」と涙を流して謝罪した。

 

 

この日初出撃を果たした特攻隊は「敷島隊」「朝日隊」の他に、セブに移動していた「大和隊」があった。

 

出撃予定時刻は14時30分であったが、発進寸前で爆撃を受け、稼動機全機が炎上してしまった。

 

予備機で再編成を行った後、16時25分に爆装2機と直掩1機が発進した。

 

しかし、悪天候に阻まれて爆装1機と直掩機は引き返したが、隊長の久納はついに帰らず、後日に本人の性情と特攻に対する熱意から推して、体当たりしたものと推定して発表された。

 

 

10月23日、「朝日隊」「山桜隊」はマバラカットからダバオに移動した。

 

唯一マバラカットに残った「敷島隊」は23日・24日にも出撃したが悪天候に阻まれて帰投を余儀なくされた。

 

関は帰投のたびに玉井に謝罪し、副島泰然軍医大尉の回想では出撃前夜まで寝る事すら出来なかった状況だったという。

 

 

10月24日、大西はマバラカット、セブおよびダバオの各基地に対し、10月25日早朝の栗田健男中将の第一遊撃部隊突入に呼応しての特攻隊出撃を命じる。

 

「敷島隊」には戦闘三一一飛行隊から関と同じ愛媛出身の大黒繁男上等飛行兵が加わり、直掩には歴戦の西澤廣義飛曹長が加入した。

 

10月25日7時25分、関率いる「敷島隊」10機(爆装6、直掩4)は、骨折の身ながら海軍病院から抜け出して駆けつけた山本や、山本に付き添った副島らに見送られてマバラカット西飛行場を発進する。

 

途中、初出撃から行動を共にしていた山下機がエンジン不調でレガスピに引き返し、「敷島隊」の爆装機はこの時点から5機となる。

 

10時10分にレイテ湾突入を断念して引き返す栗田艦隊を確認した後、10時40分に護衛空母5隻を基幹とする第77.4.3任務群(クリフトン・スプレイグ少将)を発見して突撃機会を伺い、10時49分に僚機と共に突入して戦死した。

 

関行男海軍中佐 享年23。

 

 

「敷島隊」は第77.4.3任務群に接近するまではレーダーを避けるために超低空で飛び、至近距離まで近寄った後に雲間へ隠れて様子を伺い、10時49分に攻撃を開始した。

 

1機はキトカン・ベイの艦橋を掠めて飛行甲板外の通路に命中、カリニン・ベイには1機が前部エレベーター後方、もう1機が後部エレベーター前方にそれぞれ命中した。

 

ホワイト・プレインズを狙った1機は、被弾による操縦不能によって狙いが外れて艦尾至近の海中に突入、セント・ローにはホワイト・プレインズに向かっていた2機のうちの1機が針路を変えて突入し、格納庫で爆発した爆弾により激しく炎上したセント・ローは、11時30分に最後の大爆発を起こして沈没した。

 

 

セント・ロー撃沈は関大尉によるものとして広く認知されているが、「カリニン・ベイ」に突入したとする説、また突入時刻やアメリカ側が撮影した写真などから、関が突入したのは「キトカン・ベイ」であるという主張もある。

 

しかし、「敷島隊」のどの機がどの空母に突入したかを特定するのは困難である。

 

 

1944年10月28日神風特攻隊の戦果が「海軍省発表」で公表された。敷島隊の戦果だけであり、同じく特攻した菊水隊、大和隊の戦果が同時に発表されなかった。

 

国民が神風特攻隊を知ったのは1944年10月29日の新聞による特攻第一号・関中佐の発表が最初だった。

 

そのため、敷島隊隊長・関行男中佐は「特攻第1号」として大々的に発表されたが、戦後は21日に未帰還となった大和隊隊長・久納好孚中尉を未確認ながら豪重巡への特攻として久納を第1号とする主張もある。

 

消息を絶った久納、佐藤、そして特攻が確認された「朝日隊」「山桜隊」「菊水隊」について連合艦隊布告が出されたのは、11月13日になってからのことだった。