【欧州大戦 アルデンヌの森の戦い】 ② 地獄の戦場 バルジの戦い | 戦車兵のブログ

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バルジの戦いは、第二次世界大戦における西部戦線において1944年12月から1945年1月の間、アルデンヌ高地で行われたナチス・ドイツのドイツ国防軍(以下ドイツ軍)とアメリカ軍を主体とする連合軍との戦闘の名称。

 

 

1944年12月16日、連合軍の重要な兵站基地であったアントワープ占領を目標として、ドイツ軍の3個軍がアルデンヌ地方においてアメリカ軍に攻撃をかけた。

 

 

アメリカ軍はアルデンヌでのドイツ軍の攻撃を予期しなかったため、アルデンヌには実戦経験が皆無か、以前の戦闘で消耗していた師団ばかりが配置されていた。

 

 

その上悪天候により航空支援も受けられず、緒戦では多くの戦線でドイツ軍の突破を許した。

 

しかしながらドイツ軍の補給線が伸びて行く一方で、アメリカ軍は増援部隊の到着により防衛線を着々と固めていき、12月25日には最大でもミューズ川手前でドイツ軍の攻勢は阻止され、戦線は「バルジ」(突出部の意)を形成していた。

 

 

翌年の1945年にはアメリカ軍による「バルジ」への反撃が開始され、ドイツ軍の作戦は失敗し、ドイツ軍は貴重な戦力や物資を余計に消耗することとなった。

 

 

アメリカをはじめとする欧米では、ドイツ軍の突出した戦線「バルジ」にちなんで「バルジの戦い」(Battle of the Bulge)という名称が主に使われる。

 

 

ドイツでは作戦の正式名称であった「ラインの守り作戦」(Unternehmen Wacht am Rhein)または西方総軍司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥の名前をとって「ルントシュテット攻勢」(Rundstedt Offensive)の名が使われている。

 

 

そのほか「アルデンヌの戦い」(Battle of the Ardennes)という名称もある。

 

 

日本では「バルジの戦い」が一般的だが、「バルジ大作戦」とする資料も存在する。

 

 

1944年6月6日から始まったノルマンディー上陸作戦以降アメリカ・イギリス軍を主体とする連合軍(以下連合軍)はフランスで進撃を続け、8月25日にはパリの解放が実現した。

 

 

その後も連合軍はドイツ軍を追撃したものの、予想以上に早い連合軍の進撃は補給線の延長を招いたため連合軍の進撃は停滞し、戦線は膠着状態にあった。

 

 

9月4日にはイギリス軍が良好な港湾があるベルギーのアントワープを解放したものの、海とアントワープの間の水路の両岸にあるドイツ軍陣地の掃討が難航したため、港湾を補給拠点として使用する目処は立っていなかったのである。

 

 

 

この状況を打開するため、または「クリスマスまでに戦争を終わらせる」ために9月17日からオランダへの侵攻作戦、いわゆるマーケット・ガーデン作戦が開始された。

 

だが、ドイツ軍の能力をあまりに軽視した作戦計画は作戦の進行とともに次々と欠陥を露呈し、本作戦は多くの犠牲とともに失敗した。

 

 

戦線は再び膠着し、連合軍は一時的に進撃を中止して部隊の再編成とともに補給対策に取り組み始めた。

 

また、東部戦線ではソ連軍によるバグラチオン作戦がポーランドの東部で息切れしていた頃で、小休止状態にあった。

 

 

ドイツのアドルフ・ヒトラー総統は戦況がやや停滞しているとの見通しを立て、東部・あるいは西部戦線での反撃作戦を構想した。

 

だが、広大な東部戦線ではある一地域での反撃成功はあまり大勢に影響しない上にソ連赤軍はすぐに損害を埋め合わせる可能性が高く、東部戦線での攻撃計画は見送られた。

 

最終的にヒトラーは3個軍によってアルデンヌ地方から連合軍の重要な兵站基地であったアントワープへ進撃、占領すると同時にオランダ方面で行動していたイギリス軍を包囲、「第二のダンケルク」を作り、連合軍に打撃を与えて講和に持ち込んでソ連との対決に全力を注ぐことを方針として定めた。

 

軍部首脳のルントシュテットやモーデルは、この計画は無謀だとして反対した。

 

 

 

もう一つの案として、北部の広大な戦線に分散するコートニー・ホッジス将軍麾下の第1軍を挟み撃ちにして壊滅させることが提案された。

 

敵軍の包囲、分断は容易であり、自らの損害も最小限に押さえられるとされたが、所詮連合軍の戦力の一部を減らすだけでしかなく、戦争の趨勢を変えられる案ではないとして却下された。

 

 

作戦時期はアルデンヌの森に霧が立ち込める冬とされた。すでに制空権は連合軍側に移っており、航空機による激しい空襲から部隊を隠すためであった。

 

またドイツ軍は作戦に参加する戦力として精鋭約20個師団を用意し、先鋒となるパイパー戦闘団には新鋭のティーガーII戦車約20輌も含まれていたが、内実は東部戦線での出血の間接的影響のためほとんどの部隊が定員割れしており、練度の低い新編成の国民擲弾兵師団までが投入されるほどであった。

 

 

軍需燃料の不足も深刻さを増していたが、それまで備蓄していた予備燃料400万ガロン(1,500万リットル)を切り崩す許可をヒトラーが出した。

 

 

しかしそれでも燃料は不足していた。また作戦には1944年に戦中最大に達したドイツの兵器生産のストックのかなりの部分が投入され、精強な部隊による作戦でもあることから、大きな期待がかけられていた。

 

しかし攻撃を予定のまま続けるには作戦の途中で連合軍の補給拠点を奪取する必要があるなど、最初からかなり危うい作戦だった。

 

ひとつ歯車が狂った場合、それが作戦全体に波及する可能性が非常に高かったのである。

 

 

連合軍の上層部はドイツ軍集結の情報や攻勢作戦の兆候を報告されていたが、ドイツには攻勢に打って出る余力はもう残っていないだろうという油断から本気にしなかった。

 

またアルデンヌ地方は深い森林と山岳地帯であったため、装甲部隊がすんなりと通れるとは思われず、その地区の防衛には脆弱な部隊しか配置していなかった。

 

 

この油断は戦後にかなり痛烈に批判されている。

 

何故なら、ドイツ軍の戦車部隊は1940年に同じ地域から(当時は仏英主導だった)連合軍の隙を突いてフランスになだれ込んだからである。

 

 

いくらドイツにはもはや攻勢に出る余力がないと思っていたにせよ、連合軍は歴史から(というよりは数年前の失敗から)全く学んでいなかったということになる。