北海道地震 安否不明者捜索、全員を家族に返した陸自指揮官3人の思い | 戦車兵のブログ

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北海道胆振地震で災害派遣で活躍した北恵庭の第七十二戦車連隊の幹部3名のインタビュー。

 

かつて同じ中隊で勤務した懐かしい顔があるね。

 

以下産経ニュースより転載

 

 

 

北海道胆振地方を襲った最大震度7の地震から約1カ月。死者41人。

 

中でも36人ともっとも犠牲者が多かった厚真町で、安否不明者の捜索にあたった最前線の陸上自衛隊第7師団の現場指揮官3人が産経新聞のインタビューに応じた。

 

 

 「大根おろしで削ったように家がなくなっていた」「1人でも早く見つけたかったが、焦っては逆効果。冷静に進めた」。

 

苛酷な状況下、不明者を家族の元に帰すまでを証言してもらった。

 

 

 

答えてくれたのは、第7師団第72戦車連隊第1戦車中隊長、西谷大平(たいへい)1尉(41)、第2戦車中隊副隊長、野地啓二1尉(53)、第3戦車中隊長、安田拓士1尉(39)だ。

 

 

 

時系列で捜索状況を追ってみる。(以下敬称略)。

 

 

 【6日午前3時7分、地震発生】北恵庭駐屯地(恵庭市)から2キロ離れた官舎で就寝中だった西谷は、震度が6以上だったため、駐屯地に駆けつけた。

 

 

 震度5強以上だと、命令がなくても駐屯地に駆けつけることになっているという。

 

 

 野地の自宅は一軒家だった。自宅の周囲を点検し、駐屯地に向かった。安田も駐屯地に向かう。

 

 

 

 【同6時7分】厚真町に派遣命令。西谷は約20人の部下を連れ、トラック3台に分乗して拠点となる新町パークゴルフ場に向かう。

 

 

【同9時ごろ】ゴルフ場に到着。

 

大規模土砂崩れで不明者がいるという幌内地区へと向かおうとするが道が寸断されている。

 

シャベルやつるはしを手に持ち、川に沿って徒歩で進む。距離にして約8キロ。なかなかたどりつかない。

 

電波状態が悪く上級部隊との連絡もとれなかった。

 

 

 【午後0時20分】現場到着。「ここに3人、1・5キロ先にも1人が行方不明」という情報。家があったとされる場所に建物はなかった。「1階部分が大根おろしで削られているようだった」(西谷)。

 

 

2階部分だけが100メートル先に流木や土砂に流されていた。

 

「いますか」と名前を呼びながらスコップで掘り進めていく。

 

 

 

 建設会社が重機をもってきた。

 

夜間もライトをあてショベルカーの力もかり、土をどけていく。日中は全員で、夜は2班に分け4時間交代、24時間態勢で捜索するが見つからない。

 

 

 【8日午前2時】

 

 

 夜間は自衛隊だけの捜索だった。「要救助者かもしれません」と部下の声。

 

スコップと手で掘り進める。

 

約2メートル下に丸くなった状態の不明者を発見した。息がないことはみてとれた。警察、消防に引き継ぐ。感傷にひたる時間はない。

 

 

 「まだ不明者がいる。早く見つけてあげなければ」

 生存率が著しく下がるとされる72時間が迫っていた。

 

 

 

 【同日午前11時10分】さらに2人目を確認した。

 

 

西谷が捜索していた現場から1・5キロ離れた地点で1人行方不明という情報。

 

西谷は当初、部下を何人か連れて向かおうとしたが、水が出て2次被害の恐れがあり、戻らざるをえなかった。

 

このため、野地の隊がヘリで1・5キロ先の現場に向かった。

 

 

 家は2階部分しか確認できなかった。

 

同様に24時間態勢で掘り進める。そこに別の地域で捜索にあたっていた安田の隊も応援に加わった。

 

 

 【8日午後1時】野地、安田の部隊が不明者1人を発見する。

 【9日午前6時半】西谷らは3人のうち1人が発見されないままだったが交代となる。

 

この1人は同町の36人目となる最後の不明者だった。

 

その遺体が見つかったのは10日午前1時43分だった。

 

 

 生死を分ける72時間が近づく中、焦りで苦しくなかったのか。疑問をぶつけてみた。

 

 

 「指揮官としては意識しているが部下を焦らせるのは逆効果だ。逆に捜索が遅れてしまう。訓練で、われわれは戦車ごと埋めたりもする。感情移入せず平素通りであたらなければ継続できない」(安田)

 

 

 2人の指揮官ともほぼ同じ答えだった。

 

 

 捜索中に発見した写真やアルバムは、家族に渡すために袋に入れたという。

 

 

 

 西谷は「隊は担当する地域については普段から地形などを研究しているが、大規模災害では担当部隊だけで対応できない。柔軟に想像力を持つ訓練が必要だ」と振り返る。

 

 

インタビューの後日、通行不能だった捜索にあたった現場に通じる道が通じたため、車で向かった。

 

 

 幌内神社から1本道を山へと登っていく。

 

しばらくすると、西谷1尉が「大根おろしのように家が削られていた」と話していた現場があった。

 

田んぼに土砂が流れこみ流された家屋の一部もあった。

 

そこに墓標として木の板に花が供えられてていた。

 

3人が亡くなった場所だ。

 

 

 手を合わせ、野地1尉の部隊がヘリコプターで移動したというさらに先の捜索現場に向かう。

 

土砂で埋まっていた道を重機がならして通れるようになってはいるが、道幅は狭く大きな岩が転がっている。

 

四駆ではない自分の車では途中で動かなくなるのではないかと不安にかられながらも登っていった。

 

 

 野地1尉らが捜索した現場はまだ家屋の2階部分や押しつぶされた車が数えるだけで2台。

 

手つかずになっていた。

 

偶然にも避難所で出会った方の自宅でもあり、野地1尉らが見つけた不明者の遺体は、記者が話を伺った男性の母親だった。

 

埋まった1階で母親は犠牲となり、男性と妻がいた2階部分は数十メートル流され、救助された。

 この地は、日高幌内川に長さ約500メートル、幅400メートルにわたり尾根が崩れ、500万立方メートルという土砂が崩落。

 

土砂が川をせき止め“土砂ダム”ができてしまった地域だった。

 


 誰がこんなことが起きると想像できただろうか。

 

92歳の母親を失った男性は「母は生きすぎたのかもしれない…1カ月になるがまだ信じられない」と話していたが、自らに災害が降りかかるとは誰も想像がつかない。すさまじい自然の力にただただ、言葉もない。




 過酷な現場の最前線で黙々と捜索救助にあたった自衛隊、警察、消防の方々に感謝しかない。

 愛する者が生死不明のままで残された家族は供養も心の整理もつかず時間はとても残酷だ。

 

西谷1尉らは家族の痛みがわかるからこそ感情的にならず、黙々と捜索にあたったのだ。

 


 救助支援にあたった自衛官は最大時で約2万5000人。

 

徐々に人員も減っているが、10月5日時点で給食など150~200人態勢で活動している。(札幌支局長 杉浦美香)

 

 

(産経ニュース)

 

 

歳とったな・・・。

 

関西から転属してきたレンジャーバッチを付けた若い3曹のイメージだったのにSLCで幹部になったのは戦車射撃競技会で小隊長をやっていたのと、祝賀会の受付で数年前に会ったので知ってはいたが・・・。

 

そのまんま副中隊長で同じ中隊に勤務しているとは・・・。

 

もう定年間近なんですね。

 

お疲れ様でした。