ペリリュー戦の証言 | 戦車兵のブログ

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戦後も73年、戦争体験者は90代を過ぎている。

 

当時少年兵だった人でも80代後半だ。

 

戦争体験者の証言も直に聴くチャンスは失われつつある。

 

 

平成も残り僅か。

 

天皇陛下も来年退位される。

 

天皇陛下はかつての激戦地への慰霊の旅をされた。

 

その中にはペリリュー島もある。

 

その時、ペリリュー島で戦後まで生き残っていた34名の将兵がいた。

 

生き残りの将兵に天皇陛下は語りかけた。

 

 

ペリリューの戦闘は日米でかなり見方が違う。

 

残っている記録も米軍側は映像や写真など豊富にあるが日本側にはほとんどない。

 

生き残った将兵の証言や戦訓情報が少ない戦闘の記録である。

 

ペリリューの戦いの戦訓は後の硫黄島の戦いで活かされることとなる。

 

 

証言者の話は、島嶼防衛の困難さと補給を絶たれた状態での戦いの厳しさを教えてくれる。

 

 

昭和19年(1944年)、米軍は、ペリリューを含むパラオ諸島をフィリピン奪還の拠点として利用するため、攻略を決定する。一方、日本軍は、パラオを死守するため、飛行場のあるペリリュー島に歩兵第2連隊を含むおよそ1万人の部隊を派遣した。

 


 9月13日、米軍は艦砲射撃を開始し2日後の15日、「2,3日で陥落させられる」との予想の下、3万人近い部隊を上陸させた。

 

 

これに対して日本軍は島じゅうに張り巡らせた洞窟陣地を使って組織的な徹底抗戦に出た。

 

日本軍は、米軍の圧倒的な兵力と物量に対し2か月以上にわたって抗戦し、1万人を超す戦死者を出して11月25日、組織的な戦闘は終結した。

 

一方米軍も、日本軍の激しい抵抗によって、1万人近い戦死傷者を出した。

 

 

 

 ペリリュー島の戦いでは、洞窟に追い詰められた日本兵たちの多くが、死ぬなら敵に突撃し一矢報いて命を散らしたいと願ったが、大本営は「玉砕」を禁じ、「持久戦を完遂せよ」という命令を出していた。

 


 昭和20年8月の終戦後も、生き残った兵士たちは洞窟にたてこもり続け、戦闘終結から2年半後の昭和22年4月22日、元海軍少将の説得でようやく兵士たちは武装解除に応じた。

 

そのとき生き残っていた日本兵はわずか34人だった。

 

 

土田 喜代一氏は陸戦隊に編入され、陸軍の指揮下に入る。

ペリリュー島での戦闘当時、24歳、海軍上等水兵。

 

海軍二等兵曹。

 

昭和22年4月22日にようやく投降した34人の一人であった元海軍二等兵曹の土田喜代一氏の証言である。

 

 

米軍迎え撃つ証言

 

「迎え撃つっていうのがもう、結局はその、迎え撃つっていうのはどうかね、それはもう中川大佐の頭一つで動いてるからね。こうこうやっても決して悲観するな、慌てるな、こういうことがあるかも分からんからというあれを指示していたらしいですよ。そしてそれには驚いてはいかんと。引き寄せて戦って、相当犠牲者を出した。だいたいフィリピンの攻撃というのの足元にここはされるということが、やっぱり分かっていたんでしょうね。それをやっぱり中川大佐がうまい具合に考えておったんじゃなかですか。」

 

 

「引き寄せてここでたたくと。それから敵は、ルパータス少将は3日間でいいと言ったのがね、74日間戦った。それもやっぱり11回もろたですか、天皇陛下さんのごかしょうっていうのは。1回もらうとでも相当な有名な戦いじゃな、ごかしょうという天皇陛下さんのあれは出ないわけです。それを11回もらったっていうのが、帰ってきてから、ほーって言って、11回ももらったんだなあって言って、私たちは…。そしてその現地人のやっぱ、よその部隊の人に、私はもう旋盤工やったけど、その人に、帰ってきて、「あなたペリリュー島の生き残りの人?」「はい」って言ったら、「はーっ」て言われる。「どうしてですか?」って言ったら、「ペリリュー島はまだ戦う、まだ戦うって言ってとても有名なところだ」って。「ああ、そうですか」…言うて、こういうふうなこと聞きましたけどね。そういうふうに、やっぱ頭の良かったんじゃなかですかね。引き寄せて戦って、フィリピンのそのあれを…。

そういうふうな指令を出とったらしいですね、軍令部のほうから。軍令部っていうのは、誰だったかな、陸軍の参謀総長ですたいね。海軍は軍令部総長って言うですたいね。あの人の指令でこうこう動きよったんじゃないですかね。軍令部総長が、必ずしも玉砕するのが日本人のあれじゃないと、こうやってこうやって一兵にいたるまで戦えというふうなことが軍令部のほうから中川大佐に。玉砕してもあの人は、早く何してから全部玉砕して、いくぶんでも戦えて、アメリカ人を殺して死ぬというのがやっぱし大将とすればね、あれだったけど、まだ死んじゃいかん、死んじゃいかんというふうに軍令部のほうからずっとありよったらしいですよ。」

 

 

戦車への攻撃

 

「確か戦車砲じゃなかろうかと思って、撃ち込まれたらもう壕の中いっぺんでザラザラーっとなって、ここで4~5名やられて。そしたらその中隊長が怒って、「よし、今から戦車攻撃だ」って、「志願者3名だ」というあれを受けて、1人は海軍から出て、1人は陸軍が出て、「もう1人誰かいないか」ということになって、私も初めて、陸軍の刀のさやのような、この長い刀の筒のようなやつがあって、これは棒地雷といって、この線をビューっと抜いて体もろともにやったほうがいちばん効果が上がると。横にこういった場合はババンとやられて戦車はダメになるから、いちばんいい方法としては体もろともにキャタピラに突っ込むのがいちばんだというその説明を中隊長からされて。「もう1人は誰かいないか」ということで、私も棒地雷は担いでいるし、さあ、このへんが死にどきかなーと思ったけど、まだその、敵が上陸したばかりの日にあんまり早く死ぬのも、どうせ玉砕せにゃいかんと思ったけど、あまりに早いなと思って私はじっとしておったら、一人の、そのコデラカメサブロウがパッと手を挙げて「コデラ一等兵参ります。死ぬときは潔く死ねと両親から言われました」と言って、そのコデラ一等兵というのが手を挙げていったわけでありますが、そのコデラ一等兵というのは銃の撃ち方も分からんような男だったけど。「土田さん、これはどういうふうに銃はするんか」「このばかやろうが。いいかよう見とけ、これはこうしてガチャとこうして、そして安全栓をこうして引くというと、弾は出ないから、撃つ時はこれを解放して撃て。分かったか」「はい、分かりました」と言って、そんなふうな幼稚な男だったけど、自分が行こうかと思ったらコデラが「コデラ行って参ります」と言って、そういうようなこと言って出て行きました。

そしてその次に、今度はご飯を炊くのに水がいると、しかし40~50メートル先のほうに井戸があるから、あの井戸水を、もう決死隊、準決死隊のようなかっこうで水をくんでこいということを3名に伝えて、私はそれに水をくみに行きました。ところが水くみの井戸のそばでポッポポッポポッポ、2台の戦車がもう火を吹いて燃えていましたけど、びっくりしてこうして見たら、足にひっかかったところ、一人で水をくんで、ひっかかったところを見たら、アメリカ兵がこうやって外に放り出されて、そして時計がキチキチキチといって、銃も持ったまま戦車が飛び出したところが、死んでいて「あっ」と言うてから、「この時計も持っていけ、銃も持っていけ」って言っていったら、ああ、これがコデラたちがやったのがこれだったんだなと思って。2台燃えていたのが。そしてその銃とかなんか取っていって「中隊長、銃とあれが取ってきました。しかし井戸のそばで2台の戦車が燃えていました。たぶんコデラ一等兵たちがやったと私は確信しています」と言って、「ああ、よかった、よくやった」と言って、そこでご飯を炊いて、その晩また違うところに出撃したその覚えがありますと。そのときはそのコデラ一等兵がこれをやった、確かにやったのに間違いないと思って、私は今でもその「コデラ一等兵のあの勇敢さをたたえています」と言って。涙が出ます。コデラ一等兵がやったと…。今でもその戦車はあります。1台残っています。ペリリュー島で。その横に、砲がある横に1台残っているのがコデラカメサブロウがやったと思うわけです。今でも残っております。」

 

 

「自分の身代わりに死んだような気がするわけです。私の棒地雷は絡んでたしね。だからその、私が「はい」とこうすればもうそれでしまいやったけど、敵が上陸したばかりのときに玉砕ちゅうようなかっこうしてたけど、死ぬのにはちょっと早いなという感じる部分もありましたしですね。それからこうやって、ためらいと言えばためらいがあったわけですよ。ここらあたりかなと思ったけど、死ぬのもあんまり早いなという、ためらいがあったけど、ちょっとこう考えておるうちにコデラが手を挙げたから、私の身代わりになったような気がするわけです。

棒地雷というのは、全然私は見たこともなかったんですよ。それから陸軍が「海軍さん」と。「これはこの、ビューって…するというと60キロの重みがかかれば爆発する」と、それだけは教え(られ)ていたわけですよ。それからいちばん肝心なのは、「体ともに突っ込むのが100パーセントだ」と。「100パーセント爆破して動けなくなる。だからこうするのがもういちばんのあれですよ」と言うのが、「は、そうですか、分かりました」ということでした。」

 

 

 

洞窟戦

 

「ここはちいっと引っ込んでるんですよ、ここは。ちょっと、50~60センチですね。だから、どんどんどんどん、ここから撃った場合は最後の激戦があったって言ったでしょうが。ここと、やつらはこの中山(飛行場北部の山・台地)にいろいろ砲を据えたわけですたいね。最後の戦いの。妨害の戦いで。そして

出るのを待って、ここをめがけてバンバン撃ったわけですたいね、こう。こうやってここめがけて。私たちはここにおるから、陸海軍が。ここを出ようとしたところで、ここで10人ぐらいがやられて、7人が。

ここでボンボンボンボンと出るところを撃っておいて、私たちは結局、こう移ったから、ここをね、ちょっとした抜け穴が、なんかこううまい具合にすると外に出れるわけですたいね、こう。ここを敵は…ちょっと引っ込んだところにこう身を伏せて、こう。こう敵が分からん、小さい抜け穴が…外に出れるわけですよ、ここは。だからここを敵が気がついているわけですよ。だからここだけをドンドンドンドンこっちで撃ってくるわけですよね。私たちはこの10人はこれから、こう回ってこうして…して、そして3名ほどが応戦したわけですよ、銃持って、こっちと、どんどん撃ち合って、これとこれで。こっちと撃ち合っとるわけですたいね、こう。こういうふうに。3名ほどこのここを抜け出て、外に出たもんだから、もう銃が赤くなるほど撃っとるわけですたいね。そのうちに7人が残りでこの、10人ぐらいがもう結局戦死して、残りはこれからは全部出ていたわけですよね、こう。出ていったのが何十人ぐらいかね、30人ぐらいじゃないですかね、これ外出たのは。他にほら、ここにおらん人も、合わせて30名になりましたけれども。そしてここめがけてドンドンドンドン撃つもんだから、ここ抜け出して3名ほどここで出てこれと応戦して、その隙に30名ほどこうやって逃げ出して、この壕を捨てたわけですたいね。それで、ソノベ中尉はですね、海軍の一番長だったですね、ソノベ。ソノベとセキネがね、セキネ中尉とか2人がこのやっぱ出ていて、2人はここで草むらに隠れたわけですよ。この外の草むらに。ところがめくら弾に当たって2人も戦死しているわけ。」

 

 

証言を語ってくれる戦争体験者は貴重であった。

 

そして戦争体験をしている生存者はもっと貴重である。