警察予備隊・海上警備隊の創設を指示しされた日 | 戦車兵のブログ

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1950年7月8日GHQが警察予備隊の創設と海上保安庁の増員(海上警備隊)を日本政府に指示した日。



1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争において、アメリカ軍は日本駐留部隊を朝鮮半島に出動させることとなった。



その時点で日本駐留陸軍部隊は第8軍の4個師団(第1騎兵・第7歩兵・第24歩兵・第25歩兵)であり、九州駐留の第24歩兵師団は直ちに移動を開始している。


その後、7月上旬には第8軍全部隊が朝鮮半島に移動することとなり、日本における防衛兵力・治安維持兵力が存在しないこととなった。




7月8日、マッカーサー元帥は吉田茂首相に対し、「日本警察力の増強に関する書簡」を提示した。



この書簡においては、「事変・暴動等に備える治安警察隊」として、75,000名の「National Police Reserve」の創設が要望されていた。


公表された書簡では左記の表記が採用されていたが、GHQ部内資料である「日本の安全保障諸機関の増強」(Increase in Japanese Security Agencies) においては「Constabulary」(警察軍)と称されており、アメリカが第2次大戦前にフィリピンで創設していたフィリピン警察軍 、アメリカ軍政庁統治下の南朝鮮で創設していた南朝鮮国防警備隊(現在の大韓民国陸軍)のような対反乱作戦部隊を想定していたものと考えられている。




日本に再軍備を認める事は、時の陸軍長官ケネス・ロイヤルから国防長官ジェームズ・フォレスタルに提出された答申「日本の限定的再軍備」で1948年5月に確認された既定の事項だった。




1950年8月10日、警察予備隊令(昭和25年政令第260号)が公布された。


同第9条には内閣総理大臣の他に担当大臣を置ける旨の規定があり、実際に1951年(昭和26年)12月26日から1952年(昭和27年)7月31日まで国務大臣大橋武夫がその任に当たった。



長は警察予備隊本部長官(認証官であり、国務大臣ではなく官僚扱いとなる)であり、創設の1950年(昭和25年)8月14日から廃止される1952年7月31日まで增原惠吉(後年、防衛庁長官)が務めた。



長官を補佐する警察予備隊本部次長(現在の防衛事務次官)には、同じく1950年8月14日付けで江口見登留が任命された。



警察予備隊は、日本において1950年(昭和25年)8月10日にGHQのポツダム政令の一つである「警察予備隊令」(昭和25年政令第260号)により設置された武装組織となった。


1952年(昭和27年)10月15日に保安隊(現在の陸上自衛隊)に改組されて発展的解消をした。



警察予備隊は、日本の平和と秩序を維持し、公共の福祉を保障するため、国家地方警察及び自治体警察の警察力を補うものとして設けられた。


その活動は警察の任務の範囲に限られるべきものであると定められていたが、実質的には対反乱作戦を遂行するための準軍事組織もしくは軍隊であり、装備はM1ガーランド小銃、戦車(当時の呼称は言い換えにより「特車」)など重武装であった。



組織としては総理府の外局扱いとされ、警察とは独立して内閣総理大臣の指揮を受けた。



同時期に存在した「警視庁予備隊」と混同されることがあるが、警視庁予備隊は後に警視庁機動隊となる部隊であり、警察予備隊とは関連しない。



海上警備隊の創設は、1952年(昭和27年)2月20日、海上保安庁の改正案要綱として正式に発表された。


同年4月26日、正式に海上警備隊が発足し、同日に海上警備隊総監部が霞が関の旧海軍省庁舎に設置されたが、ここでも二復(旧海軍)と海保の間で激しい人事抗争が起こり、とくに4月26日に海上保安庁次長であった山崎小五郎が海上警備隊総監に内定した際は、山本は日記に「今日は最も不愉快な日かもしれない、否、もっと不愉快な日が何日も来るだろう」と書き込んでいる。


その後、水面下で課長級人事をめぐっても激しい人事抗争が起きている。



1952年(昭和27年)5月19日に山本は旧海軍の大将クラスで構成されていた「大将会」で海上警備隊創設に関する経緯の報告を行い、併せて山梨勝之進と野村により他の海軍大将12名に対して山本へのさらなる協力の要請が行われ、大将達から了承を得ていた。



この会合には初代海上警備隊総監である山崎も出席して自身への「大将会」の支援を要請し、これに対して「大将会」は「一同心から」支援することを了承し、旧海軍と海保の間で一応の「手打ち」が成された。



海上警備隊は、1952年(昭和27年)4月26日から7月31日まで、海上保安庁内に設置されていた海上警備機関。



「海上における人命若しくは財産の保護又は治安の維持のため緊急の必要がある場合において、海上で必要な行動をするための機関」とされる。


ただし海上保安庁内の機関ではあるものの、警備救難監(当時の海上保安官トップ)の統制を受けないなど独立性の高い組織であった。



約6,000名の定員のうち、幹部の99%以上と下士官の98%以上が旧海軍軍人であり、旧海軍軍人主導の元、将来的には海上防衛力の母体として独立することを視野に入れた「スモール・ネイビー」として組織されていた。


実際、発足同年の8月1日には早くも保安庁警備隊として海上保安庁から独立し、2年後の1954年(昭和29年)7月1日には、防衛庁(現在の防衛省)海上自衛隊へと発展している。