杉原千畝は有名なのに…樋口季一郎中将はなぜ忘却されたのか  | 戦車兵のブログ

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新潟県立大学の袴田茂樹教授のコラムでは北部軍軍司令官樋口季一郎陸軍中将について紹介している。


杉原千畝は知られているのになぜ樋口季一郎は知られていないのか?


以下産経ニュースより転載



 9月初め、露ハバロフスクに近いユダヤ自治州ビロビジャンのユダヤ教会を訪問した。



スターリン時代にユダヤ移住地に指定された自治州は、実際は辺鄙(へんぴ)な「幽閉地」で、移住したユダヤ人も殆(ほとん)ど逃げ、人口の2%以下だ。



 教会内展示室には、1940年に「命のビザ」で多くのユダヤ人を救ったリトアニア領事代理の杉原千畝の写真もあった。



パターン化された歴史認識



 教会の案内人に、では杉原以外にも、38年にソ連・満州国境で、ナチスの弾圧を逃れソ連を通過した数千人のユダヤ難民を救った日本人がいるのをご存じかと尋ねたら、全く知らないと言う。



 樋口季一郎中将(1888~1970年)のオトポール事件のことで、彼の名はユダヤ民族に貢献した人を記したエルサレムの「ゴールデンブック」にも載っている。



わが国でも、樋口を知っている人は少ない。



露でも日本でも政治により戦前の歴史には蓋がされて、国民にリアルな現実認識がないからだ。



このような状況下で、今日また深刻化した戦争や平和の問題が論じられている。



 近年、冷戦期に二大陣営の枠組みに抑えられていた民族、宗教、国家などの諸問題が、国際政治の表舞台に躍り出て、混乱と激動の時代となり、世界の平和と安定の問題が喫緊の課題となっている。



 われわれ日本人がリアルな現実認識を欠き、パターン化した歴史認識のままで、複雑な戦争や平和問題を論じ安保政策を策定するのは危険である。



一人の日本人による満州でのユダヤ難民救済事件を例に、歴史認識のパターン化について少し考えてみたい。



 樋口は陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸大卒の超エリートだ。



戦前の陸大は東京帝大より難関とされた。



1938年のユダヤ難民事件のころ彼は諜報分野に長(た)けた陸軍少将で、事実上、日本の植民地だった満州のハルビン特務機関長であった。


同機関は対ソ諜報の総元締で、樋口は日本陸軍きってのロシア通だった。



捨て身でユダヤ難民を助けた



 38年3月10日、彼は満州のユダヤ組織代表、カウフマンから緊急依頼を受けた。



ソ満国境のオトポールにたどり着いた多数のユダヤ人が、満州への国境通過許可がもらえず、酷寒の中で餓死者、凍死者も出る事態になっており、すぐにも彼らをハルビンに通してほしいとの必死の依頼だ。



 当時、日本はナチスドイツと防共協定を結んでおり、ナチスに追われたユダヤ人を満州に受け入れることは、日本の外務省、陸軍省、満州の関東軍にも反対論が強かった。



しかし緊急の人道問題だと理解した樋口は馘(くび)を覚悟で、松岡洋右満鉄総裁に直談判し、2日後にはユダヤ難民を乗せた特別列車がハルビンに到着した。





 案の定、独のリッベントロップ外相から外務省にこの件に関して強い抗議が来た。



樋口の独断行為を問題にした関東軍の東条英機参謀長は、新京の軍司令部に樋口を呼び出した。




しかし強い決意の樋口は、軍の「五族協和」「八紘一宇」の理念を逆手にとり、日露戦争時のユダヤ人の対日支援に対する明治天皇の感謝の言葉なども引き、ナチスのユダヤ人弾圧に追随するのはナンセンスだと、人道的対応の正しさを強く主張した。




 樋口の捨て身の強い信念と人物を見込んだ東条は、彼の行動を不問に付すことに決めた。



樋口は関東軍や東条の独断専行には批判的だったが、後に「東条は頑固者だが、筋さえ通せば話は分かる」とも述べている。



リアルな理解が国際政治の基礎



 樋口がユダヤ人にここまで協力したのは、若い頃ポーランドに駐在武官として赴任していたとき、ユダヤ人たちと親交を結び、また彼らに助けられたから、さらに37年に独に短期駐在して、ナチスの反ユダヤ主義に強い疑念を抱いていたから、といわれる。




 戦後、ソ連極東軍は米占領下の札幌にいた樋口を戦犯としてソ連に引き渡すよう要求した。



その理由は、樋口がハルビン特務機関長だっただけでなく、敗戦時には札幌の北部司令官であり、樺太や千島列島最北の占守(しゅむしゅ)島でのソ連軍との戦闘(占守島でソ連軍は苦戦した)の総司令官だったからだ。




 しかし、マッカーサー総司令部は樋口の引き渡しを拒否した。



後で判明したことだが、ニューヨークに総本部を置く世界ユダヤ協会が、大恩人の樋口を守るために米国防総省を動かしたのである。



 私たちは、同じように日独関係の政局に抗して数千人のユダヤ人を救い、映画にもなった外交官の杉原は知っていても軍人の樋口についてはあまり知らない。



それは「将軍=軍国主義=反人道主義」「諜報機関=悪」といった戦後パターン化した認識があるからではないか。



ビロビジャンのユダヤ教会も、遠いリトアニアの杉原は知っていても隣の満州の樋口は知らない。



露でも「軍国主義の戦犯」は歴史から抹消されたからだ。



 私は、リアルな歴史認識こそが国際政治や安保政策の基礎だと思っているので、自身も長年知らなかった事実を紹介した。(新潟県立大学教授・袴田茂樹 はかまだ しげき)



(産経ニュース)


樋口季一郎中将について書かれた本が最近多く出版されている。


私が初めて樋口中将の本を読んだのは中学生の頃に読んだ「流氷の海」という本だった。


その後「樋口季一郎回顧録」を読んだ。


札幌には今も樋口中将が住んでいた北部軍軍司令官官邸が保存され「つきさっぷ郷土資料館」として残されている。


樋口中将の軍服や資料も残されている。


樋口中将のお孫さんが札幌市議会議員だったりもする。


札幌は樋口中将と縁が深いのだ。


アッツ島の慰霊碑の除幕式に訪れたのが札幌に来た最後だった。


その除幕式には私の祖父も参列していた。