坂本龍馬襲撃事件 | 戦車兵のブログ

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慶応2年1月23日(1866年3月9日)、坂本龍馬を伏見奉行の林肥後守忠交の捕り方が捕縛ないしは暗殺しようとして寺田屋へ襲撃した事件が起きた日。




「寺田屋遭難」とも言う。







龍馬や長州の三吉慎蔵らは深夜の2時に、幕府伏見奉行の捕り方30人ほどに囲まれ、いち早く気付いたお龍は風呂から裸のまま裏階段を2階へ駆け上がり投宿していた龍馬らに危機を知らせた。


楢崎龍の可能性があるとされた女性の写真



捕り方は「肥後守(奉行)よりの上意」であるとして迫り、踏み込まれた龍馬らは「(奉行の権限の及ばない)薩摩藩士である」との嘘を主張したが、簡単に見破られた。





龍馬は高杉晋作からもらった拳銃で、三吉は手槍を用いて防戦して、捕り方2名を射殺、数名を殺傷させた。




しかし捕り方が拳銃を持つ手を刀で払おうとして、龍馬は手の親指(左右)を負傷。



三吉慎蔵


装弾ができなくなったと言うので、三吉が必死に槍で応戦する間に、辛くも家屋を脱出して路地を走り、材木屋に隠れた。




三吉は切腹しようとしたが龍馬に止められて、伏見薩摩藩邸に救援を求めに行くように依頼された。




薩摩藩邸にいた留守居役大山彦八は藩士3名をつれて川船を出して救出に向かい、龍馬は九死に一生を得ることができた。




すぐに京都の西郷隆盛のもとに報告が行き、吉井幸輔が早馬で伏見に来て事情を調べ、西郷は軍医を派遣して治療に当たらせると共に藩邸で警護させた。




翌日、薩摩藩邸は龍馬に対する伏見奉行からの引き渡し要求を受けたが、拒否した。



この事件に新撰組が関わったとの説もあったが、伏見奉行が「肥後守」であったことから、同じ官位の京都守護職松平肥後守と誤認されて、それにより配下の新撰組の関与が連想されたものであった。



現在は間違いであるとされるが、訂正されていない古い書籍やそれをもとにしたものには新撰組が登場する。




『三吉慎蔵日記抄』によると、両名は伏見で度々新撰組の検問を無事通過しており、嫌疑を受けていた様子はない。



伏見奉行が動いた理由は、薩摩藩士を騙る不逞浪人が寺田屋にいるということだったようである。



龍馬はその後、伏見の藩邸から京の藩邸(二本松)に移ったが、また伏見の藩邸に戻り、大阪から船で鹿児島に脱出した。


そのしばらくの間は西郷隆盛の斡旋により薩摩領内に湯治などをしながら潜伏する。


このお龍との旅行が、一般的には日本初の新婚旅行とされている(ただし、「日本最初の新婚旅行」については、龍馬とも親交のあった薩摩藩家老・小松帯刀が、龍馬・お龍夫妻の旅行より10年前の安政3年(1856年)に、先に栄之尾温泉を訪れていた妻と義父を追う形で訪問した例を「最初」とする見解もあり、小松が龍馬・お龍夫妻が薩摩を訪れた際に薩摩藩の船に同乗し、夫婦を現在の鹿児島市原良にあった小松の別邸に宿泊させるなどしていることから、小松が自らの経験を元に龍馬に勧めたのではないかとする説もある)。




今井信郎




箱館戦争後に投降した元京都見廻組今井信郎は、刑部省口書において自らの近江屋事件への関与を認めて、その襲撃動機を坂本龍馬が寺田屋遭難事件で捕り方を殺害して逃走したことを挙げ、龍馬は殺人・逃亡犯であってこれに対する公務執行であったと主張した。



この供述には異論もあったが、明治政府は近江屋事件への関与も今井の罪の1つとして禁固刑の判決を出している。


これが事実とすれば、つまり寺田屋遭難でお龍は龍馬の命を救ったが、結局はこの騒動が彼の命を奪ったことになる。




現在寺田屋を称する建物(同一敷地内)には、事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされている。




しかしながら、現在の寺田屋の建物は明治38年(1905年)に登記されており、特に湯殿がある部分は明治41年。(1908年。お龍はその2年前に病没)に増築登記がなされているなどの点から、専門家の間では以前から再建説が強かった。





平成20年(2008年)になって複数のメディアでこの点が取り上げられ、京都市は当時の記録等を調査し、同年9月24日に幕末当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものであると公式に結論した。




京都市歴史資料館のウェブサイトにある「いしぶみデータベース」では、「寺田屋は鳥羽伏見の戦に罹災し、現在の建物はその後再建したものである。」と紹介している。


大正年間に現在の寺田屋の土地・建物は幕末当時の主人である寺田家の所有ではなくなっており、のちに経営そのものも跡継ぎのなくなった寺田家から離れている。


この「寺田屋」は昭和30年代に「第14代寺田屋伊助」を自称する人物が営業を始めたものであり、「第14代寺田屋伊助」自身、寺田家とは全く関係はない。