海軍兵学校 | 戦車兵のブログ

戦車兵のブログ

元陸上自衛隊の戦車乗員である戦車兵のブログ
北海道在住でマニアックなメカとしての戦車じゃなく、戦車乗りとしての目線から自衛隊や戦史、戦車を見る!!。
ブログの内容・文章・画像を許可無く無断転載を禁じます。
悪質な場合は著作権侵害となりますのでご注意下さい。



海軍兵学校(かいぐんへいがっこう、1876年(明治9年) - 1945年(昭和20年))は、明治から昭和の太平洋戦争終戦まで存続した大日本帝国海軍の将校たる士官の養成を目的とした教育機関である。






戦前、江田島といえば、海軍兵学校を意味した。





海軍兵学校は、海軍機関学校、海軍経理学校とともに生徒三校と呼ばれた。





その規模ではイギリスの王立海軍兵学校、アメリカの合衆国海軍兵学校とともに、世界でも最大の兵学校の一つで、全78期から、総計1万2433名の卒業生を出している。





江田島に通った軍人は、同じ釜の飯を食った海軍兵学校の同期(クラスと呼ばれた)を何よりも大切にした。




日本海軍にいる限り、どうしても出世に差が生じ、クラスでも上官と部下になることもあったが、職務を離れれば「貴様と俺」で話が通じる対等の立場であるという不文律があった。




クラス同士の会合は準公務として扱われ、またクラスが戦死した場合残された家族は生き残ったクラスが可能な限り面倒を見るという暗黙の了解が存在していた。





こうしたことは美風として語られ、戦後に至るまで兵学校出身者の絆は強かった。




第二次世界大戦中、国内の諸学校で英語教育が敵性語であるという理由で廃止縮小されるなか、井上成美校長の強い信念で従前通り英語教育が継続され、徹底した教養教育もなされた。




このことが礎になって、坂元正一東京大学名誉教授(皇族の産婦人科担当医を長年務める)や、建築家池田武邦(日本の高層建築のパイオニア)など、戦後、各界でリーダーとして活躍している卒業生、元生徒も多い。





戦後の学制改革に伴い、学歴としての「海軍兵学校卒業」は、その他の「海軍生徒学校卒業」および「陸軍生徒学校卒業」とともに、国・地方自治体・民間企業等における学歴免許等資格区分では短期大学卒と同等と扱われるようになった。





批判




行過ぎたエリート意識、貴族趣味、排他性が機関科士官、特務士官や戦争末期の学徒出陣による予備士官に対する差別、下士官兵への露骨な差別に繋がったとの批判もある。




江田島が兵学校の所在地に選定された理由は、




1.軍艦の錨泊が出来る入江があること。




2.文明と隔絶し、いわゆる娑婆の空気に汚されずに教育に専念できる環境を持つこと。




3.気候が温暖で、安定していること。



この3点を備えていたためである。




沿革





1869年(明治2年)、前身の海軍操練所が東京・築地の元芸州屋敷内に創立開設された。





1870年(明治3年)、海軍兵学寮と改称し、1876年(明治9年)、改称されて海軍兵学校が開校。築地時代に明治天皇が皇居から海軍兵学校まで行幸した道が、現在のみゆき通りである。





1888年(明治21年)に呉市の呉鎮守府に近接した広島県の安芸郡江田島町(現在の江田島市)に移転した。




「本校舎の赤煉瓦は一つ一つ紙に包まれ軍艦でイギリスから運ばれた」と伝えられているが、実際は当時レンガの生産を始めた安芸津町(現在は東広島市安芸津町)で作られたという説もある。





海軍機関学校は関東大震災で校舎が全焼したため、一時期江田島の海軍兵学校の校舎を借りて教育が行われた。




海軍兵学校の52期から55期まで、海軍機関学校の33期から36期までの生徒が同じ地で教育を受けて関係を深めた。






1939年(昭和14年)より、採用生徒数(71期)は1936年(昭和11年)の採用生徒数(300人)と比較して倍増(600人)した。




これは1937年(昭和12年)の第3次軍備拡張計画により、大型戦艦の建造、航空隊が倍増されるための要員確保のためであり、1941年(昭和16年)には採用生徒数(73期)は900人となり、その後の採用生徒数は拡大の一途を辿った。




1943年(昭和18年)11月15日には岩国分校が、1944年(昭和19年)10月1日には大原、舞鶴分校、1945年(昭和20年)3月1日には針尾分校がそれぞれ開校された。




このうち舞鶴分校は海軍機関学校の分校として開学した。



針尾分校は1945年(昭和20年)7月に防府の通信学校に疎開して閉校となった。





1945年(昭和20年)12月1日までに全校が廃校となり、消滅した。





江田島の兵学校跡は、1956年(昭和31年)以降、海上自衛隊の第1術科学校および幹部候補生学校になっており、明治時代の赤煉瓦の校舎や、大講堂、教育参考館などが残されている。





生徒の採用





以下の事柄は時代によって多少の違いがあるが、必要受験資格は受験年齢は16歳から19歳の年齢制限があり、身体条件を満たす者、中学校第四学年修了程度の学力、独身者、犯歴の無い者とされた。




銓衡にあたり、最初に身体検査、運動機能検査で学術試験受験者が決定され、学術試験は5日間連続で行われた。




学術試験は数学に始まり、英語(和訳)と歴史、物理、化学と国語(漢文も含む)、英語(英作文、文法)と地理の順に行われ、それぞれの学術試験の採点結果は当日に発表され、所定の合格点数に達した者のみが次の学術試験を受験できる篩い落とし選考であった。





その後、面接試験を経て最終合格者が決定された。



志願者の増加と共に内申書による事前選考が行われるようになった。





日本海軍の人事政策では兵学校出身者は特別の事情がない限り、大佐まで昇進させる方針を採っており、採用生徒数は海軍の軍備政策と密接な関係にあった。





海軍兵学校設立の明治時代から、この海軍兵学校に入学するための予備校的な学校が、全国に存在していた。




主な予備校的な学校には、明治初期は、東京の攻玉社、明治中期以降は、東京の海軍予備校(海城中)が有名で、数多くの合格者を出した。




その他に、神奈川の湘南中、横須賀中、逗子開成中、兵庫の鳳鳴義塾、広島の修道中、山口の鴻城中、高知の海南学校、佐賀の三養基中などがあった。




その後、大正時代頃になってくると、先駆的な私立の予備校的学校の進学実績は減少していった。




なお、これらの予備校的な学校は、戦後の学制改革により制度が変更がされ、海上自衛隊との関連はなくなった。



また、第65期(昭和9年4月入学)から第69期(昭和13年)4月入学)の入学試験倍率は20倍を超えていた。




この期は、東京府立ナンバースクールに、湘南中、横須賀中、横浜一中などの他、仙台一中、麻布中、神戸一中、広島一中、呉一中、済々黌、佐賀中、鹿児島一中に、外地の朝鮮・竜山中、台湾・台北一中なども含めた全国の数多ある中学が上位合格者数を競いあっていた。





なお、海軍兵学校は、兵科上級将校になるためには通らなければならない学校であった。




一方、大学工学部などを卒業し技術士官になる途はあった。





東京帝国大学等の成績優秀な学生で海軍委託生になれば、海軍に籍を置き士官に准ずる給与支給があり、卒業後は技術士官の地位が約束された。




海軍委託生は海軍兵学校生より運動系の科目の内容は緩和されていた。




また、一般の大学生と違い陸軍の軍事教練の単位を取る必要も無く、この面でも優遇されていた。






生徒の教育





教育期間は始め3年制、1927年(昭和2年)より3年8ヶ月、1932年(昭和7年)から4年制となったが、中国における事変拡大の影響を受け、1934年(昭和9年)入校の66期が3年9ヶ月に短縮された後、戦線の激化に伴い1935年(昭和10年)入校の67期(3年3ヶ月)、1936年(昭和11年)入校の68期(3年4ヶ月)、1937年(昭和12年)以降の69期 - 71期(3年)、1940年(昭和15年)入校の72期(2年10ヶ月)、1941年(昭和16年)入校の73期(2年4ヶ月)と教育期間が短縮されていった。




兵学校においては、最上級生を1号、以下2号、3号、4号と称した。




英国式の術科重視の教育が行われ、卒業後は少尉候補生として練習艦隊に配属され、遠洋航海など実地訓練や術科講習を経て任官した。





当初は兵学校生徒のままで参加したが、1897年(明治30年)より、24期生が少尉候補生として航海を行った。



この練習航海も太平洋戦争の開戦により、1941年(昭和16年)の69期生の航海を最後に終了した。




第二次世界大戦中も英語教育は継続された。




陸軍士官学校が英語教育を廃止し入試科目からも外すと、海軍兵学校もこれにならうべきだという声が強くなった。





しかし、井上成美校長は、「一体何処の国の海軍に、自国語しか話せないような海軍士官がいるか」、「いやしくも世界を相手にする海軍士官が英語を知らぬで良いということはあり得ない。英語が今日世界の公用語として使われているのは好む好まないに拘らず明らかな事実であり、事実は素直に事実と認めなければならぬ。外国語のひとつも習得しようという意気のない者は、海軍の方から彼らを必要としない。私が校長である限り英語の廃止などということは絶対に認めない」と却下し、英語教育継続に伴っておきた校長排斥運動に関しても、「これらの運動に従事する人物の主張するところ、概ね浅学非才にして島国根性を脱せず」と断じ、兵学校の英語教育は従来通り行った。




海軍兵学校内では従来通り外来語の使用も容認している。




このことは、戦後、大学に入り直すなどして再出発することになった卒業生達から相当感謝されている。







生徒の待遇




兵学校生徒には、海軍一等兵曹(昭和17年以降は海軍上等兵曹)と海軍兵曹長の中間ともいえる階級を与えられていた。




これは、陸軍士官学校予科生徒が“赤タン”(無階級)であったのに比べれば、非常に優遇されていたと言える。




夏の帰省時には、純白の第二種軍装が一際映え、郷里の誇りとして町を挙げての歓迎会が開かれたほど人気があった。





海軍兵学校の卒業生は卒業席次(ハンモックナンバー)順に昇進していった。




これが人事の硬直化を招いた。





選修学生





1920年(大正9年)から1942年(昭和17年)の間、兵学校の教育は、上記の将校生徒と選修学生(第23期まで存在する)の二本立てであった。




選修学生制度とは、優秀な准士官(海軍兵曹長)および海軍一等兵曹の中から選抜して、生徒教育に準じた教育を行う課程であった。





この制度は、海機、海経にも設置されていた。





ただ、この課程を卒業したとしても、特務士官という立場に変わりはなかった。




なお、陸軍士官学校も士官候補生と少尉候補者(乙種学生)の二本立てであった。




職員



職員として、校長、副校長、副官、教頭、教官、監事長、監事、分隊長、軍医長、主計長、附など置かれた(時代により違いがある。)。





このうち、教官は、教頭の命を承け学術教育を担任した。監事は監事長の命を承け訓育を担任した。





五省



海軍兵学校の教えとして有名な「五省(ごせい)」は松下元校長が考案したもので、兵学校の精神を代表するものとして名高い。




諸外国の軍人をも感動させたといい、戦後、英訳されてアナポリス海軍兵学校でも採用された。




海上自衛隊にも引き継がれている。




ただし、これが考案されたのは1932年(昭和7年)で、海軍兵学校の歴史から見れば末期の一時期のこととも言える。





どの程度重視したかは当時の校長や教官の姿勢にも左右されており(永野修身校長の時代は重視されず、唱和されることもあまりなかったという証言もある)、常に重んじられていた訳でもないらしい。




リベラリズムと柔軟性を重んじた古参の海軍軍人の中には「帝国海軍の風潮になじまない」として好感を持たない者も少なからず存在していた。