恋愛は厳禁、無の青春…「特攻訓練」と知らされず男子部隊を一途に支援した女子学徒隊「白梅隊」 | 戦車兵のブログ

戦車兵のブログ

元陸上自衛隊の戦車乗員である戦車兵のブログ
北海道在住でマニアックなメカとしての戦車じゃなく、戦車乗りとしての目線から自衛隊や戦史、戦車を見る!!。
ブログの内容・文章・画像を許可無く無断転載を禁じます。
悪質な場合は著作権侵害となりますのでご注意下さい。


特攻で若くして戦死するとその戦死した者のことは将来忘れ去られる運命にあるのだろうか?


10代で陸軍船舶特別幹部候補生となった者は多くが独身であった。


子孫がいなければ思い出してくれる者や供養してくれる者もいずれ途絶え、生きていた証さえ忘却の彼方へ行ってしまうものなのかも知れない。


特攻出撃した者にしか解らぬことや言いたいことはあるだろう。


しかし、彼ににはそれを伝える術すらない。


せめて彼等を知っている者が彼等を語り伝えて行かなければ忘れ去れてしまう。


以下産経ニュースより転載








「10代の少年たちが水上特攻の訓練を受け、千人以上の方が国のために戦死なさったのをご存じでしょうか」-。


太平洋戦争末期、香川県の小豆島に組織された、水上特攻兵の訓練・養成部隊「陸軍船舶特別幹部候補生隊」。


秘密部隊の同隊を支援するために動員されたのが、地元の土庄商業学校(現県立土庄高校)の女子生徒約30人だった。




 昭和20年4月、土庄町の部隊施設舎近くの神社前。白いはちまきを締めて写真に納まる女子生徒の中に、当時、4年生だった西崎サヨ子さん(86)=同町=の姿もあった。



 土庄商の女子生徒はそれまで、勤労動員で大阪のベアリング(軸受け)会社で生産活動に従事させられていた。


突然の動員替えに、大阪から汽車で岡山・宇野港に向かい、上陸用舟艇(しゅうてい)で小豆島へ帰郷すると、早速、休む間もなく部隊に赴いた。



 秘密部隊だったため、陸軍は地元の女学生に白羽の矢をたて、島から出さない施策をとった。


思いも寄らぬ軍への動員。


「なぜ私たちだけが…。でも、島(郷里)に戻れると涙が出るほどうれしく感激しました」と振り返る。







 部隊長から、幹部候補生の男子は「天風(てんぷう)呼ばん 征矢(そや)の矢にと」として「天風隊」、女子は「花に輝き咲く花の女ながらも国守る」として「白梅(しらうめ)隊」と命名された。



 入隊後、指導教官(将校)からの第一声は「隊での恋愛は禁ず」だった。



「幹部候補生の男子とは会話さえも許されず、女子生徒への規律にも厳しかった。


終戦後に知ったのですが、一般の若い女性は密かに会っていたようですが…」。そういってほほ笑んだ。




 朝、学校に集合し隊列を組んで部隊へ。学徒動員の歌「あぁ、紅に血は燃ゆる」を合唱しながらの行進だった。


施設舎に着くと、白梅隊の女子生徒は班ごとに分けられ、西崎さんらは香川県近海の海図づくりの班に配置された。



 「海の深さなど、兵隊さんが測量した記録を図面にうつす作業などに取り組んでいました」。


西崎さんらがつくった海図をもとに、天風隊の訓練や特攻計画が進められていた。


他の班は、潤滑油づくりのため松ヤニを集める作業や、軍服など衣服の修復に従事していたという。


 野外活動で景勝地の寒霞渓(かんかけい)(小豆島町)に行ったり、イモ畑を開墾したりした際は幹部候補生たちと一緒だったが、そのときも男女別で隊列を組み、集合時も会話は厳禁だった。


青春というのが無の状態だったことに、「勝利を信じての勤務。暗いイメージはありませんでした」と語る。




 戦時中、部隊の訓練内容はすべてが極秘で、女子生徒には何一つ明かされなかった。


「候補生の『よーそろー、よーそろー』の掛け声は耳にしましたが、まさか、舟艇に乗って敵艦に体当たりするための部隊とはみじんも思わなかった」。


幹部候補生隊の名のごとく、卒業後は将校になるものと信じていた西崎さん。


戦後、特攻のための訓練部隊だと知ったとき、「勝つためだけの教育を受けていたとはいえ、優秀な若者が命を散らしていったことに、なぜ、もっと早く戦争を終わらせることができなかったのかと思い、悲しみがこみ上げました」と語気を強めた。





 小豆島の護国神社には、戦死した候補生の御霊が地元の戦没者とともに合祀されている。


当時10代の少女たちの目に候補生たちの訓練はどう映ったのか-。




 戦後70年を迎え、西崎さんは語る。「戦争を知る人が少なくなり、残念でもあります。同時に、今日の平和な日々がこの上もなくありがたい」と。




(高橋義春)




 陸軍船舶特別幹部候補生隊 「若潮部隊」とも呼ばれ、全国公募の中から選抜された15~19歳の約8千人が第1~4期に分かれて香川県の小豆島で水上特攻の基礎訓練に取り組む。




卒業生の多くが陸軍海上挺進隊へ配属され、隊員らは昭和19年9月から順次、広島県・江田島町で実戦訓練を受けた後、出撃していった。




(産経ニュース)



陸軍特别幹部候補生は大東亜戦争末期の日本で15歳以上20歳未満の男子志願者から選抜され、陸軍の短期現役下士官となる教育を受ける者。



1943年(昭和18年)12月に制定され、戦争終結まで存在した。



特幹と略称される場合がある。




日本陸軍では下士官が部隊の初級幹部とされ、その補充には様々な方法があったが、現役下士官の中で特に航空、通信など特别な技能を必要とする兵種には陸軍少年飛行兵、陸軍少年戦車兵など若年のうちに軍学校の生徒として教育する制度が大東亜戦争以前からすでに存在していた。




しかし戦争の拡大により人員のさらなる補充が必要となり、従来の少年兵より短い教育期間で現役下士官を補充する制度が望まれた。




1943年(昭和18年)12月14日、「航空、船舶、通信、技術等関係部隊ノ戦力ヲ急速ニ強化スル為実務教育ヲ主トスル下士官補充制度」として陸軍現役下士官補充及服役臨時特例(勅令第922号)が定められた。





これにもとづいて採用された者が特别幹部候補生(特幹と略)である。




制定の翌日12月15日には航空関係(操縦・技術・通信)と船舶関係の最初の召募が行われた。




陸軍には少年飛行兵、少年通信兵、少年戦車兵、少年重砲兵など若年から教育を受ける各種の陸軍少年兵と通称される制度が存在した。





これらは正しくは陸軍諸学校の生徒であり、それぞれの学校を卒業し下士官に任じられるまで厳密には軍人ではなかった(少年飛行兵に限り訓練中の事故死の危険性が高く殉職の賜金を可能にするため、基礎教育終了後は志願兵として正規の兵隊扱いとなった)。




それに対して特幹は採用された時点から現役の一等兵であり、給与も陸軍諸学校生徒が月額4円の手当であるのと異なり一等兵の月給9円が支払われた。




陸軍には特幹と名称が類似した制度がいくつか存在した。幹部候補生の制度は予備役将校となる甲種幹部候補生および予備役下士官となる乙種幹部候補生があったが、どちらも4か月以上在営した兵のうち中等教育学校卒業以上の学歴保持者から選抜されるもので、特幹とはまったく別の制度である。





一部には特幹として採用された後に所定の学歴条件を満たしている者が、あらためて志願のうえ試験に合格し甲種幹部候補生に転ずる場合もあった。




他に1944年(昭和19年)5月に制定された特别甲種幹部候補生制度は高等教育の学歴を持つ民間からの志願者を予備役将校とするため教育するもので、これも学歴や年齢条件、予備役将校と現役下士官の補充といった諸条件が異なる別の制度である。