特攻艇「震洋」といえば作家の島尾敏夫を思い出す。
以下産経にュスより転載
兵庫県洲本市塩屋の市民工房で「平和のための淡路戦争展」が開催され、淡路島内在住の海軍予科練体験者の講演などが行われた。
同展実行委員会が開催したもので、3人の予科練体験者が約50人を前に自身の経験を語った。
予科練から特攻要員となった体験を語る神阪尭さん
海軍飛行予科練習生(予科練)は航空機の搭乗員を養成、第二次世界大戦末期には多くが特攻隊として命を落とした。
片岡精明さん(85)、山本宣昭さん(86)、神阪尭さん(85)の3人が自身の予科練での体験を語った。
台湾の台北一中から昭和19年に15歳で予科練入りした神阪さん。
戦局は悪化しており、訓練用の飛行機もなかったという。
200人の隊員から20人の特攻隊が募られ、志願もしていないのに組み入れられた。
1日だけ自宅へ戻れたが、特攻について話してはならず、「長い間、お世話になりました」と心の中で母に伝えたという。それでも母親は気づき「私が敵艦に突っ込む夢を何度も見たそうです」。
ベニヤ板で作ったボートに爆弾を積んだ特攻艇「震洋」で出撃準備をしたが、敵艦の位置が判明せず出撃の機会のないまま終戦を迎えた。
高知の浦戸航空隊に入った山本さんも飛行機の操縦訓練はまったくなかったという。
当時の自身を振り返り、「世の中のことを与えられたことしか知らなかった。新聞を見て日本勝っているすごい、と思っていた」という。
広島の原爆や敗戦につながる情報も何も知らされなかった時代に「人間は情報で賢くもバカにもなる。政府にとって悪いことでも伝えられる世の中でないといけない。そんな世の中にならないことを願っています」と締めくくった。
(産経ニュース)
黒島亀人連合艦隊主席参謀は、軍令部に対しモーターボートに爆薬を装備して敵艦に激突させる方法はないかと語っていた。
この後の1944年4月4日、黒島亀人軍令部2部部長は「作戦上急速実現を要望する兵力」と題した提案の中で、装甲爆破艇(震洋)の開発を主張した。
この発案は軍令部内で検討された後、海軍省へ各種緊急実験が要望された。
艦政本部において○四兵器として他の特攻兵器とともに担当主務部を定め、特殊緊急実験が行われた。
大本営は捷号作戦に合わせて震洋隊の編成を急いだ。陸軍にも震洋と同種のマルレが存在したため密接な協調を取った。
震洋とマルレは合わせて○ハと呼称されることになる。
1944年8月8日までに、海軍と陸軍との間で○ハ運用に関する中央協定が結ばれた。
大森仙太郎によれば、心配だったのは震洋搭乗員の志願者が集まるかという点であったが、思ったより多かったため安心したという。
1944年8月16日、最初の搭乗員50名が卒業した。
8月末には300名が卒業している。
その後は毎月400名が卒業した。
8月16日の検討会では草鹿龍之介中将と井上成美中将が生還の可能性も考えてほしいと意見するが、最終的にそういった措置が取られることはなかった。
○四は1944年8月28日付で「震洋」として米内光政海軍大臣より認可、兵器として制式採用された。(内兵令71号)
震洋は、陸軍海上挺進戦隊のマルレとともに、フィリピン、沖縄諸島、日本本土の太平洋岸に配備された。
1945年にはフィリピンのルソン島リンガエン湾に上陸してきた米軍を迎撃し、幾ばくかの戦果を挙げてはいる。
沖縄戦にも実戦投入された。アメリカの資料によると、終戦まで連合国の艦船の損害は4隻だった。
防衛司令官の直轄扱いではなく、攻撃の有無・成否・戦果などが部隊ごとの記録となった。
実戦では部隊ごと全滅してしまうことが多かったことから、特に実戦投入に関する実情は不明なところが多い。
従って現行の文献では米軍の記録した水上特攻戦果に対し、震洋、マルレ共に配備された地域では日本軍側の戦果報告記録が無い場合(混乱の中で消失もしくは部隊ごと消滅した場合)「マルレもしくは震洋によるもの」とされることが非常に多い。