アッツ島の守備隊は北海道出身者も多い。
札幌護国神社にもアッツ島守備隊の写真と、米軍の撮影したアッツ・キスカの写真が残されている。
以下読売新聞YOMIURI ONLINEより転載
太平洋戦争で1943年(昭和18年)5月、日本軍が「玉砕」したアッツ島(米アリューシャン列島)の米軍上陸直前の様子を撮影した写真が残っていた。
守備隊の日本兵たち。アルバムには、左から「岩井少尉」「氏家中尉」「沼田大尉」「小林中尉」「山本大尉」と注釈がある。
戦闘が始まる前に日本に帰還した元大尉の遺族が保管していた。
最後まで戦って潔く散るとの意味の「玉砕」は、この戦闘で初めて使われた。
写真には日本の守備隊の姿が写っており、この遺族は「多くの関係者に見てもらいたい」と話している。
写真は、飛行場建設の調査のため、43年4~5月、技術者として島に滞在した元陸軍大尉の山口次雄さん(1993年に82歳で死去)がその間に撮影した。
「昭和十八年五月 アッツ島」と題したアルバムには、雪に覆われた島内を視察する守備隊長の山崎保代やすよ大佐や、空襲などを受けて損壊した兵舎を片づける兵士らの姿が写った約70枚が貼りつけられている。
開戦後、快進撃を続けた日本軍は42年6月、米軍の北方からの反撃を防ぐため、アッツ島を占領。約2600人を配備した。
米軍は43年5月12日、1万人以上の兵力で上陸を開始。任務を終えた山口さんは、その8日前に潜水艦で島を離れた。
守備隊は、火力で勝る米軍を相手に奮闘した。昭和天皇が「御嘉賞かしょう」(お褒めの言葉)を出すほどだった。
しかし、島周辺は米艦船に取り囲まれており、大本営は増援を中止した。
見捨てられた形となった山崎大佐ら残った約150人は5月29日、「機密書類全部焼却 之これニテ無線機破壊処分ス」の電報を最後に突撃、ほぼ全滅した。
約2600人いた兵士のうち、捕虜になって生き残ったのは27人だったとされる。
その後、日本軍がアッツ島を奪還することはなかった。
アルバムを保管する山口さんの実弟・今野誠也さん(89)(仙台市)によると、戦後、建設会社に勤めた山口さんは「島に慰霊に行きたい」などと話していたが、実現しなかったという。
今野さんは「アルバムは奇跡的に残ったものだ。
兵士らの生前の姿をご遺族に見ていただきたい」と考えており、公開の方法を民間団体に相談している。
◆アッツ島=北極に近いベーリング海に面する南北約30キロ、東西約70キロの小島。
米アラスカ州に属するが、今は誰も住んでいない。
第2次大戦中、北米で唯一の地上戦が行われたことなどを理由に1985年、米国の歴史遺産に指定された。
厚生労働省によると、遺骨はこれまで約320人分が収集されている。
(YOMIURI ONLINE)
アッツ島は玉砕第一号といわれている。
北海の孤島で救援も援軍も無く孤軍奮闘し玉砕した。
生存者は27名いたが、ほとんどアッツの日本軍側の惨状は知られていない。
米軍は日本軍玉砕後も日本軍の英霊が現れ戦闘となり同士討ちで犠牲者が続出した。
隣のキスカ島守備隊が奇跡の撤退作戦でアッツ島近くを航行していると日本軍将兵の「万歳」の声を聞いたと戦史にある。
それにしてもこういう写真が70年以上を過ぎて出てくるものなのだね。