ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ(Helmuth Johann Ludwig von Moltke, 1848年5月25日 - 1916年6月18日)は、ドイツ帝国の軍人。
ドイツ帝国参謀総長。伯父ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ(大モルトケ)と区別して小モルトケと呼ばれる。
シュリーフェン・プランを修正実行し、自らの先入観で第一次世界大戦を事実上開始した。
1848年にメックレンブルク地方のゲルスドルフで生まれる。
モルトケ家はメックレンブルクの古い貴族の家系であり、プロイセン王国・ドイツ帝国参謀総長を務めた大モルトケは伯父にあたる。
1871年の普仏戦争に第7擲弾兵連隊で従軍。1875年に士官学校入学。
1880年より参謀本部で勤務。
1882年に伯父である大モルトケの副官となる。
1902年、近衛第1歩兵師団長。
1904年、参謀次長。
アルフレート・フォン・シュリーフェンの後任として、1906年から参謀総長を務める。
祖父ヴィルヘルム1世に倣い「自分のモルトケを持ちたい」と願う皇帝ヴィルヘルム2世の強い推挙によるものであり、軍部には不評な人事であった。
第一次世界大戦勃発直前の1914年7月、モルトケ参謀総長は同盟国オーストリア=ハンガリー帝国の対セルビア軍事行動を無条件で支持することを表明し、これに縛られたドイツ外交はオーストリアが希望する戦争以外の選択肢を失ってしまったため、モルトケは大戦勃発の最大の責任者の一人とみなされている。
「シュリーフェン・プラン」の修正案を立案し実行、それを以って大戦冒頭の西部戦線での攻勢を行った。
しかし、シュリーフェンの「右翼を厚く」という遺言にもかかわらず、むしろ均等に割り振り、中央部を厚くした。
このため右翼をやや小さくし、回転半径も小さくした。
そしてプランそのもののダイナミズムが削がれた。
シュリーフェン・プランの原案は当時の補給技術を考えれば実現不可能な物ではあったが、その修正案でも最終的に兵站上の問題は先送りにされたままだった。
結果的にマルヌの戦いでドイツ軍の攻勢は頓挫。
そのときモルトケは「陛下、この戦争は負けです!」という電報を送ったといわれる。
その責を負って、1914年9月に参謀総長を辞任した。
大戦中の1916年、コルマール・フォン・デア・ゴルツ元帥の国葬に参列中、脳卒中を起こして死去。
ベルリンの軍人墓地に葬られた。
哲学書好きでもあったが、何よりも音楽が好きで、特にメンデルスゾーンとバッハの音楽が好きであった。
自らチェロを弾くこともあったという。
妻の病気が祈祷で治ったと信じていたため、夫妻共々クリスチャン・サイエンスの信者であった。
また神秘思想家のルドルフ・シュタイナーと親交があり、「ドイツは大戦に負ける」というシュタイナーの予言に影響されたと言われている。
神経質な性格かつ夢想家であり、軍事演習の際しばしば落馬したが、その手にはゲーテの「ファウスト」が握られていたという。
大戦初頭にドイツ全軍を指揮したが、緊張のあまり激しい神経衰弱に陥った。
今日では、その声望はもっぱら偉大な伯父の名声に基づくものだったと評価されている。