アドルフ・ヒトラー自決 | 戦車兵のブログ

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1945年4月30日、ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーが総統地下壕の一室にて、妻であるエヴァ・ブラウンと共に自殺を遂げた。



自殺の手段は、銃と劇薬であるシアン化物を複合的に用いたものとされている。


ヒトラーの生前の意向に従い、夫妻の遺体はガソリンをかけて燃やされたが、その残骸はソ連軍のSMERSHにより発見、回収された。





ソ連によりヒトラーの遺体は秘密裏に埋められたが、1970年に掘り起こされ、完全に焼却された後にエルベ川に散骨された。



これらの情報は冷戦終結後の1992年にソ連のKGBとロシアのFSBに保管されていた記録が公開されたことによって明らかになった。


また、これによりトレヴァー=ローパーの1947年の著書 The Last Days of Hitler で示されたヒトラーの死についての見解が裏付けられた。



第二次世界大戦末期におけるドイツの劣勢を受けて、ヒトラーは1945年1月16日にベルリンの総統地下壕に居を移し、ここから第三帝国を統括した。


しかし、連合国軍が東西両方から迫っており、事態は急速に崩壊に向かっていた。


4月半ばまでにはソ連軍はベルリンに入り、ライヒ官房が位置する市の中心部へと侵攻していた。


ヒトラーの一部の側近やドイツ国防軍首脳部の一部はヒトラーの南部への疎開を進言したが、ヒトラーはそれを拒否した。


ヴェルナー・ハーゼ医師



4月22日、ヒトラーは軍事情勢会議の間に、のちに歴史家がいうところの神経衰弱に襲われ、敗北が迫っておりドイツがこの戦争に負けるだろうことを認めた。


ヒトラーは自殺の意向を表明し、その後ヴェルナー・ハーゼ医師に、確実な自殺方法を教えてほしいと依頼した。


ハーゼの提案は、シアン化物の服用と、頭に銃弾を撃ち込むことの併用だった。




またヒトラーは、同盟国のイタリアの指導者のベニート・ムッソリーニが、パルチザンに捕らえられ処刑された後に、遺体がミラノのガソリンスタンドに逆さづりにされ見せものにされたことを知っていたことから、自分は同じ運命をたどりはしないと決意する。



ヒトラーはSSからシアン化物のカプセルを入手していた。


一方でヒトラーは4月28日、ハインリヒ・ヒムラーが独自に和平交渉を協議していたことを知る。


ヒトラーはこの反逆について考慮するもパラノイアの兆候を示し、自分がヒムラーのSSを通じて入手したシアン化物のカプセルは偽物ではないかと言い始める。


カプセルの有効性を確かめるために、ヒトラーはハーゼ医師に命じて愛犬ブロンディにカプセルを飲ませ、犬の死を確認した。


4月29日真夜中過ぎ、ヒトラーはエヴァ・ブラウンと結婚し、ささやかな人前式を総統地下壕の地図室で挙げた。



新妻とともに結婚披露宴を主催した後、秘書トラウデル・ユンゲを連れて別室に移動し、自身の遺書を口述したのだろうとアントニー・ビーヴァーは考えている。


午前4時、ヒトラーはこれらの書類にサインをし、床に就いた。



なお、記録によってはヒトラーが遺書を口述したのは結婚式の直前だということになっているが、いずれにしても、サインのタイミングについては一致している。


結果的にヒトラーとエヴァが夫婦として地下壕で生活したのは、40時間に満たなかった。


4月30日の朝遅くには、地下壕から500メートルも離れていない場所にソビエト軍が迫り、ヒトラーはベルリン防衛軍司令官のヘルムート・ヴァイトリング将軍と会談を持つ。


ヴァイトリングは、ベルリン駐屯軍の弾薬が、おそらく夜には尽きるであろうことをヒトラーに告げる。


同時にヴァイトリングはヒトラーに脱出の許可を願い出る。


ヴァイトリングは以前にも脱出許可を願い出て却下されている。


ヒトラーから明確な回答が得られなかったため、ヴァイトリングはベンドラーブロックにあった本部に戻る。


同日13時過ぎにヴァイトリングは夜を待って脱出を試みる許可を得た。



4月30日昼、ヒトラーは2人の秘書と料理人と共に最後の食事となる昼食を摂った。


献立は野菜のスープとマッシュポテトであったとも[7]、ラビオリであったとも言われている。


その後、ヒトラーとエヴァは、総統地下壕のスタッフや、ゲッベルス一家やマルティン・ボルマン一家、秘書やドイツ国防軍の将校らに別れを告げた。


午後2時半ごろ、ヒトラー夫妻は個室に入室する。


数人の目撃者が「午後3時半ごろに大きな銃声を聞いた」とのちに証言している。


数分待って、ヒトラーの従者ハインツ・リンゲが、ボルマンの立ち合いで、書斎のドアを開けた。


すぐに焦げたアーモンドのにおいに気付いたと、リンゲはのちに証言している。


これは、シアン化物のガスであるシアン化水素の一般的な特徴である。


ヒトラーのSS副官オットー・ギュンシェが、書斎に入り遺体を確認した。


遺体は小さなソファに腰掛けており、エヴァの遺体はヒトラーの遺体の左に、ヒトラーから離れて沈みこんでいた。


射出口が頭の左頂部にあり、ヒトラーは右のこめかみをワルサーPPK 7.65mmで撃ったと思われた。


銃はヒトラーの足元に落ちていた。


ヒトラーのボディガードだったローフス・ミシュによれば、ヒトラーの頭部は、前のテーブルの上に横たわっていたという。


こめかみとあごから滴った血が、ソファの右のひじ掛けで大きなしみになって、フロアのカーペット上で血だまりを作っていた。


エヴァの遺体には傷が見当たらず、リンゲは彼女が服毒自殺したと判断した。


ギュンシェが書斎を出て、ヒトラーの死を地下壕に残る人々に発表した。


その後すぐに、地下壕の人々は煙草をふかし始めた(ヒトラーは生前喫煙を嫌悪し、許可しなかった)。



何人かの目撃証言によれば、2人の遺体は地上階に運ばれ、地下壕の非常口を経て、爆撃を受けた総統官邸裏の小さな庭にうつされ、そこでリンゲやヒトラーのSSボディガードがガソリンをかけて燃やしたという。


幾人かは「早く上階へ急げ、彼らは総統を燃やしている」という叫び声を聞いている。


遺体を燃やし尽くすことはできなかったが、ソビエト軍が地下壕を砲撃したため、更に火葬を続けることができず、18時以降には、燃え残りは爆弾の浅いクレーターですっかり覆われてしまったと、SSやリンゲはのちに記録している。



ソ連軍による遺体回収


ヒトラーの死から約7時間半後の23時ころからソビエト軍部隊が総統官邸への攻撃を開始する。


5月2日に、ヒトラーとエヴァ、犬2匹(ブロンディとその子どもヴルフだと思われる)の残骸が発見された。


砲弾のクレーターから遺骸を発見したのはSMERSH第79ライフル銃隊のイワン・シュラコフで、ヒトラーの遺骸発見を命じられていた。


公式な検死報告書には、銃弾によるヒトラーの頭蓋骨の損傷、口腔内のガラス破片の両方について記録されており、スターリン自身が1945年に認可したが、彼は古くからの天敵の死を容易には信じようとしなかった。


ヒトラーとエヴァの遺骸は、部隊がベルリンからマクデブルクのクラウスナー通りの新機関に再配置される間、SMERSHによって埋めたり掘り出されたりを繰り返した。


マクデブルクで彼らは、宣伝省大臣ヨーゼフ・ゲッベルスと妻マクダ・ゲッベルス、その6人の子供の焼け焦げた遺体とともに、前中庭の舗装区域の下の目印のない墓に埋葬された。


この場所は厳重に秘された。




1970年には、SMERSHの施設は KGBのコントロール下、東ドイツ政府に移譲される予定だった。


ヒトラーの埋葬場所がネオナチの聖地になることを恐れ、KGB議長のユーリ・アンドロポフは部隊に遺骸を破壊する許可を与えた。


ソビエトのKGBチームは詳細な埋葬場所を指示され、1970年4月4日秘かに10体の遺骸を掘り出し完全に焼却して灰をエルベ川に散骨した。


この1年前の1969年にソビエトのジャーナリスト、レヴ・ベジメンスキー(Lev Bezymensky)が、SMERSHの検視レポートに基づき西側で本を出版した。


しかし初期の情報攪乱のため、歴史家はその情報の信頼性に疑いを持つ場合がある。


しかしソ連崩壊後の1993年に、KGB/FSBが、KGBの元メンバーによる公的検死記録その他の報告書を公表した。


これらにより歴史家は、ヒトラーとエヴァの遺体のその後について見解の一致に達した。


1993年にロシア政府は、ヒトラーの下頤骨と、銃弾の痕のある頭骨の一部を、モスクワにあるロシア連邦保安庁(FSB)の公文書館が保管していることを発表した。


アメリカ・コネチカット大学のチームがロシア政府の許可を受けて頭骨のDNA鑑定を実施したところ、この頭骨は女性のものであるとの結果が出たという。