宇垣 一成(うがき かずしげ、慶応4年6月21日(1868年8月9日) - 昭和31年(1956年)4月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。
大正末期から昭和初期にかけて長州出身者に代わって陸軍の実権を握り、宇垣閥と称される勢力を築いた。
陸軍大臣として宇垣軍縮を断行したほか、クーデター未遂計画である3月事件に関与した。
予備役入り後に組閣の大命が下ったが陸軍の反対で頓挫し、以後も幾度か首相に擬せられたがいずれも実現しなかった。
短期間外相を務めた後公職から引退し、戦後になり参議院議員となったが在職中に死去した。
生い立ち
慶応4年(1868年)備前国磐梨郡潟瀬村大内(現・岡山県岡山市東区瀬戸町大内)の農家に5人兄弟の末子として生まれた。
幼名は杢次(もくじ)。
後に海軍大将となる宇垣纏と同郷だが縁戚ではない。
学校事務員として働いた後に上京し、成城学校を経て陸軍に入った。
軍曹に昇進した宇垣は陸軍士官学校に入学した。
23年(1890年)7月26日に陸軍士官学校(1期)を150人中11位で卒業、明治24年(1891年)3月24日に陸軍歩兵少尉に任官した。
明治29年(1896年)に一成と改名している。
明治33年(1900年)に陸軍大学校(14期)を39人中3位で卒業し恩賜の軍刀を拝領した。
尉官時代には薩摩出身の川上操六の元で地位を上げ、川上の死後は長州出身の田中義一に付き昇進した。
尉官時代の宇垣は他人より出世が遅く「鈍垣」とあだ名されるほどであり、処世術が巧みであったとは言えなかった。
明治35年(1902年)から明治37年(1904年)にかけてドイツに留学した。
この間に最初の妻の鎮恵が死去している。
明治39年(1906年)に再度ドイツに留学した。
明治40年(1907年)に小原貞子と再婚。
明治43年(1910年)に陸軍大佐に進級した。
大正2年(1913年)、山本権兵衛内閣による陸海軍大臣現役制廃止に反対する怪文書を配布し、陸軍省幕僚から地方に左遷された。
大正4年(1915年)に陸軍少将に進級、大正5年(1916年)に参謀本部第一部長、大正8年(1919年)に陸軍中将に進級、大正10年(1921年)3月11日に第10師団長、大正12年(1923年)には陸軍次官に就任した。
陸軍大臣
大正13年(1924年)に清浦内閣の陸軍大臣に就任した。
加藤高明内閣でも陸軍大臣に留任した。
大正14年(1925年)に加藤内閣において軍事予算の削減を目的とする軍縮を要求する世論の高まり、陸軍省経理局長の三井清一郎を委員長とする陸軍会計経理規定整理委員会を設けられた。
21個師団のうち高田の第13師団、豊橋の第15師団、岡山の第17師団、久留米の第18師団の計4師団、連隊区司令部16ヶ所、陸軍病院5ヶ所、陸軍幼年学校2校が廃止された。
軍縮は予算縮減を目的としていたが、実際には浮いた予算は装備の更新に回された。
第一次世界大戦を経て近代化されていた諸外国の陸軍に比べ日本の装備は見劣りがしていた。
戦車連隊と高射砲連隊各1個、飛行連隊2個、台湾に山砲連隊1個を新設、自動車学校と通信学校の開校、飛行機、戦車、軽機関銃、自動車牽引砲、野戦重砲の配備がおこなわれた。
定員の縮小に伴い多くの将校が退役させられた。
師団長4人、歩兵連隊長16人のポストがなくなったことも将校の反発を招いた。
第1次若槻内閣でも引き続き留任し昭和2年(1927年)まで務めた。
陸軍大将に進級。
昭和2年(1927年)に朝鮮総督(臨時代理)に就任。
昭和4年(1929年)に濱口雄幸内閣で再び陸軍大臣に就任し再度軍縮を検討したが、自身の健康悪化と濱口首相遭難事件で実現しなかった。
幕僚が首謀者となり宇垣ら陸軍首脳も関与していたクーデター未遂事件(三月事件)が発覚した。
クーデター後の首相就任が予定されていた宇垣は、合法的に政権を獲得できる見込みがあると判断したため計画を中止させた。
昭和6年(1931年)に予備役となり、昭和11年(1936年)まで再び朝鮮総督を務めた。
朝鮮総督時代に「内鮮融和」を掲げ、皇民化政策を行った。
一方で農村振興と工鉱併進政策を推進したが実効性には乏しく、宇垣の次に朝鮮総督となった南次郎の統治時代には農村振興政策は受け継がれなかった。
また金の産出を奨励したものの、ほとんどの利益は日本資本が占め、朝鮮人にまで利益は行き渡ら無かった。
ただし大谷敬二郎によれば、朝鮮人の間で歴代総督のなかで「朝鮮人のために尽くしてくれた唯一の総督」と宇垣が高く評価されていたと回顧している。
組閣流産
昭和12年(1937年)に廣田内閣が総辞職した。
重臣会議において宇垣が指名され組閣の大命が降下したが、宇垣軍縮や三月事件における宇垣の対応に反感を持つ陸軍が陸相を出すのを拒否したため組閣流産となった。
組閣大命の下る前、昭和6年(1931年)の満州事変、翌昭和7年(1932年)の五・一五事件、翌昭和8年(1933年)の国際連盟脱退、昭和11年(1936年)には二・二六事件など、軍部による策謀や日本の国際的孤立化、さらには陸軍皇道派などによるテロ事件の発生、新聞報道による政治批判と政党政治の腐敗による国民の政治家不信などにより政情が不安定化していた。
それをきっかけとして軍部の政治への干渉が著しくなり、危険な戦争への突入が懸念された。
そこで加藤内閣の陸軍大臣であったときに内閣の方針によく協力し、軍縮に成功した宇垣の手腕を高く評価していた元老・西園寺公望などに所望され、軍部に抑えが利く人物として昭和12年(1937年)1月に広田内閣が総辞職した後、宇垣が総理大臣に推挙されることになった。
陸軍の大物でありながら軍部ファシズムの流れに批判的であり、また中国や英米などの外国にも穏健な姿勢を取る宇垣の首班登場は、世評も高かった。
しかし、石原莞爾大佐などの陸軍中堅層は軍部主導で政治を行うことを目論んでいた。
宇垣の組閣が成れば軍部に対しての強力な抑止力となることは明白であったので、彼らは宇垣の組閣を阻止すべく動いた。
軍部大臣現役武官制に目をつけた石原は自身の属する参謀本部を中心に陸軍首脳部を突き上げ、陸軍大臣のポストに誰も就かないよう工作した。
宇垣の陸軍大臣在任中、「宇垣四天王」と呼ばれたうちの2人、杉山元教育総監、小磯国昭朝鮮軍司令官にも工作は成功し、陸軍大臣のポストは宙に浮く。
当時予備役陸軍大将だった宇垣自身が首相と陸相の兼任による内閣発足を模索し「自らの現役復帰と陸相兼任」を勅命で実現させるよう湯浅倉平内大臣に打診したが、湯浅に拒絶されたため組閣を断念せざるを得ない状態へ追い込まれた。
石原は後年、宇垣の組閣を流産させたこのときの自分の行動を人生最大級の間違いとして反省している。
石原の反省は、宇垣の組閣流産の後の政治の流れが、石原が最も嫌う日本と中国の全面戦争、石原が時期尚早と考えていた対米戦争への突入へと動いていったことによるもので、石原は宇垣の力をもってすれば、この流れを変えることができたに違いないと考えたわけである。
大正デモクラシーのさなかの第1次山本内閣において軍部大臣現役武官制を予備役に拡大したときに、もっとも強硬に反対し、陸軍首脳部を突き上げたのが当時陸軍省の課長だった宇垣であり、皮肉にも広田内閣の時に復活したその現役武官制により組閣断念に追い込まれた。
予備役でも陸相になることが可能であれば、宇垣自身が陸相を兼任すれば宇垣内閣が発足できた。
この後もたびたび次期首相候補として名前が挙がるが、「陸軍が賛成しない」として大命降下には至らなかった。
昭和13年(1938年)に第1次近衛内閣で外務大臣に就任さらに拓務大臣を兼任している。
組閣流産から半年後の昭和12年(1937年)7月7日に盧溝橋事件が勃発、日中戦争に突入した。
近衛文麿首相は事変初期段階での収拾に失敗し、いわゆる近衛声明(「爾後国民政府ヲ対手トセズ」)を発するに及んで泥沼化が懸念されていた。
事態を憂慮していた宇垣は昭和13年(1938年)5月の改造内閣に外務大臣としての入閣を請われると、日中和平交渉の開始や「対手とせず」方針の撤回を条件に就任。
早々に近衛声明の再検討を表明し、駐日英国大使クレーギー・駐中大使カーなどを介し孔祥熙国民政府行政院長らと極秘に接触、中国側からの現実的な和平条件引き出しにも成功している。
しかし近衛首相は蒋介石の下野など和平条件吊り上げの姿勢を見せ、近衛声明の維持を表明するなどした。
また陸軍は宇垣の和平工作を妨害する意図もあっていわゆる興亜院の設置を働きかけ、対中外交の主導権を外務省から奪うことを画策、近衛も賛成した。
こうして、近衛首相からも梯子を外された形となり、外相を辞任した。
なお、在任中に発生したソ連との国境紛争張鼓峰事件を外交交渉によって停戦させている。
在任中には牛場信彦らいわゆる革新派とされる若手外交官が宇垣宅を訪問して対中強硬論や革新派のリーダー白鳥敏夫の次官就任といった外交刷新を訴えるといった「事件」も発生しているが、省内のこうした路線対立も宇垣の指導力発揮を困難なものにしていた。
以上のように首相や外務省の支えが無い中で、さしたる成果もあげられないまま辞任に至ったが、目下の課題を実務的に処理する堅実な姿勢を見せた。
宇垣が国民政府から引き出した条件は後の日米交渉に比べてはるかに有利なものであるのはもちろん、交渉ルートが確実に国民政府中枢と通じた「筋の良い」ものであったこと、相互の信頼関係の存在などから、その後様々な形で行われた日中和平の試みのなかでも最も実現性が高く貴重なものであったとの評価もある。
満州事変以来の日本外交を厳しく批判していた外交評論家の清沢洌は宇垣外交を高く評価、「日本は久々に外交を持った。外交官ではない人物によって」と評したとされる。
同年9月に辞任し以後一線を退いた。
昭和19年(1944年)に拓殖大学代学長に就任している。
宇垣が和平派グループに頼りにされていた。
二次大戦下の1943年、東條内閣に対する批判が高まり、東條内閣打倒の急先鋒だった中野正剛らにより、宇垣が後継首班としてあげられ、重臣たちの了解も取り付けた。
宇垣本人も中野の策を了承し、東條内閣打倒に賛意を示した。
しかし中野たちのこの倒閣運動は東條に事前に弾圧され、ここでも宇垣内閣は誕生することはなく終わった。
昭和20年(1945年) 太平洋戦争終結の後、公職追放。
東京裁判を主導した主席検察官のキーナンは、米内光政・若槻礼次郎・岡田啓介と並んで宇垣を「ファシズムに抵抗した平和主義者」と呼び賞賛し、四人をパーティに招待し歓待している。
昭和27年(1952年)に追放解除された。
昭和28年(1953年)に行われた第3回参院選挙で全国区から立候補し、51万票を集めトップ当選した。
当選圏は約15万票だったが、宇垣は空前絶後の最高点51万3765票を集めて当選した。
運動中に倒れ、ほとんど議員活動はできなかった。
山田風太郎によると「打ち合わせ中の火鉢の焚き過ぎによる一酸化炭素中毒」という。
昭和31年(1956年)に静岡県伊豆長岡町(現在の伊豆の国市長岡)の松籟荘で議員在職のまま死去した。
上原勇作を中心とする九州閥には「蝙蝠のような男」と揶揄された。
小説家の司馬遼太郎は紀行文集『歴史を紀行する 8.桃太郎の末裔たちの国[岡山]』において宇垣の処世術を酷評している。
「聞き置く」など曖昧な表現を多用し、外相在任中に起きた張鼓峰事件においては、あたかも出兵を容認したかのように受け取られた。
宇垣は昭和天皇に対しては明確に反対論を上奏していたため天皇は不信感を持ったとされ、「この様な人を総理大臣にしてはならないと思ふ」と酷評されていた。
昭和天皇は三月事件の遠因も宇垣の言い回しが原因ではないかと考えていた。
自他ともに認める首相候補であり、内閣流産後も幾度となく候補として名前が挙がったが、結局首相になれず候補のままで他界したことから「政界の惑星」と呼ばれるようになった。
惑星は太陽(=首相)のまわりを回り続けるが、太陽(=首相)にはなれなかった意味である。
議会主義を尊重していたことなどから大物軍人としては珍しく政党政治家グループにも人気があり、戦前は民政党総裁に、戦後直後には日本進歩党総裁に推されたことがあったが、これらも実現をみることはなかった。