三八式歩兵銃 | 戦車兵のブログ

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三八式歩兵銃(さんはちしきほへいじゅう、さんぱちしきほへいじゅう)は、1900年代中期に開発・採用された大日本帝国陸軍の小銃。


日清戦争で主に使用された村田経芳開発の十三年式・十八年式村田単発銃に代わる、有坂成章開発の近代的な国産連発式小銃である三十年式歩兵銃は、1904年(明治37年)から翌1905年にかけて行われた日露戦争において、帝国陸軍の主力小銃として使用された。


三十年式歩兵銃自体は当時世界水準の小銃であったが、満州軍が中国大陸の戦場で使用してみると、同地が設計時に想定した以上の厳しい気候風土であったことから不具合が頻発した。


このため、有坂の部下として三十年式歩兵銃の開発にも携わっていた南部麒次郎が中心となり本銃の開発が始まった。


あくまで三十年式歩兵銃をベースとする改良であったため、銃自体の主な変更点は機関部の部品点数削減による合理化のみであり、また防塵用の遊底被(遊底覆、ダストカバー)の付加や弾頭の尖頭化(三十年式実包から三八式実包へ使用弾薬の変更)を行っている。


この改良は順調に進み、本銃は1905年(明治38年)の仮制式制定(採用)を経て、翌1906年(明治39年)に制式制定された。


部隊配備は日露戦争終戦後の1908年(明治41年)3月から始められ、約2年ほどで三十年式歩兵銃からの更新を完了している。


本銃の初の実戦投入は第一次世界大戦(青島の戦いなど日独戦争)であった。


以降、三八式歩兵銃は日本軍(海軍にも供与)の主力小銃としてシベリア出兵、満洲事変、第一次上海事変、日中戦争(支那事変)、第二次上海事変、張鼓峰事件、ノモンハン事変等で使用されている。



途中、1938年(昭和13年)から大口径実包である7.7mmX58弾(九九式普通実包)を使用する次期主力小銃が開発され、これは1939年(昭和14年)に九九式短小銃および九九式小銃として仮制式制定(採用)、両銃のうち九九式短小銃が量産され三八式歩兵銃の後続として順次部隊に配備された。


そのため三八式歩兵銃は1942年(昭和17年)3月をもって名古屋陸軍造兵廠において生産を終了したが、時局の不都合や国力の限界から完全には(三八式から九九式へと)更新することができなかったため、第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)においても九九式短小銃とともに日本軍主力小銃の双璧として使用された。


満州国では1935年よりモ式小銃を製造していた奉天工廠(南満陸軍造兵廠)にて現地生産が始まり、日本国内(朝鮮・仁川含む)での製造が終了した後も1944年まで製造が行われていた。


満州での現地生産品はシリアルナンバーの後ろに奉天工廠製を示す刻印が入っている以外は、国内製造品との差異は無い。


総生産数は約340万挺であり、これは日本の国産銃としては最多である(九九式短小銃は約250万挺)。


また、長期間に渡って主力小銃として使用されていたため、騎銃(騎兵銃)型・短銃身型・狙撃銃型など多くの派生型も開発・使用され、外国にも多数が輸出されている。



制式名称たる三八式歩兵銃の「三八式」の正式な呼称は「さんはちしき(さんはちしきほへいじゅう)」である。


しかしながら、語呂がいいことから「さんぱちしき(さんぱちしきほへいじゅう)」と称されることも多い。


また「三八式小銃」という名称も、(歩兵銃と騎銃を統一した九九式短小銃が採用されるはるか以前である)大正時代初期頃から既に陸軍内部では官衙等上層部においても半公式的に使用されている。


なお、英語圏を中心とする日本国外においては「Type 38 rifle」「Arisaka type 38 rifle」「Arisaka M1905 rifle」「Arisaka 6.5mm rifle」または単純に「Arisaka rifle(アリサカ・ライフル)」と呼称されることも多い。


本銃の開発は南部麒次郎陸軍砲兵少佐によって行われたものであるが、原型となった三十年式歩兵銃の開発者が有坂成章陸軍砲兵大佐であることによる。


開発・製造


日露戦争における主力小銃であった三十年式歩兵銃は、機関部の構造が複雑なうえ、分解結合の際に撃針(ファイアリングピン)が折れる故障が時折発生した。


また、戦地の満洲をはじめ中国大陸が開発時の想定以上の厳しい気候風土であったため、大陸特有の細かい砂塵が機関部内に入り込み作動不良を引き起こした。


こうした欠点を補うためも含めた主な改良点は、機関部の構造の簡素化・遊底と連動する遊底被の付加(遊低被自体は容易に脱着可能)・三八式実包の採用・扇転式照尺の装備・弾倉底の落下防止・弾倉発条をコイルスプリングから板バネに変更・手袋着用時のための用心鉄(トリガーガード)の拡大である。中でも機関部構造の簡略化は画期的なものであり、マウザーのGewehr 98よりもさらに3個も部品数の少ない、計5個の部品で構成されている。


また、1921年(大正10年)4月に発錆防止のため、施条(ライフリング)を6条から4条に変更する改良も追加でされている。



製造技術


当時の日本の技術水準に合わせ、構造はごく単純化されていたが、主に最終工程の組み立てに当たっては熟練の工員の手により調整していくしかなかった。


先進列強各国の兵器において取り入れられ始めていた部品の互換化は、工業水準の低さにより完全に行うことが出来なかった。


日本が小銃の部品互換性を実現するのは後継の九九式小銃・短小銃まで待たねばならない。


木材部分には、国内産のクルミが使用されている。


銃床部は耐久性向上のため2個の木材部を上下に組み合わせている。

金属部分、特に銃身鋼材については、軍用銃には珍しいタングステン合金銃身鋼(高速度鋼)が使用されている。


この銃身鋼材は八幡製鉄所で精錬し、鋼材を各工廠(陸軍造兵廠)で加工した。


銃身鋼材を国内精錬とした初めての銃であるが、原料は国内調達ができず、タングステンこそ山口県産の重石鉱を使用したが、鉄鉱石は中国の鞍山産を使用している。



また、銃身鋼の製法パテントはオーストリアのボーレル社から取得している。


また、銃身には製造工数は増えるが、耐久性の高いメトフォード型ライフリングが彫られていた。


銃身の寿命は発射数8,000発程度と想定されていた。


運用


完全軍装の歩兵は、弾薬5発を1セットにした挿弾子(クリップ)を30発分収めた前盒(弾薬盒)を前身頃に2つ、また60発入の後盒1つをそれぞれ革帯(ベルト)に通し計120発を1基数として携行した。銃剣には三十年式銃剣を使用。


基本的に補給効率を考慮して三八式歩兵銃を装備する中隊には、同じ三八式実包を使用する三八式機関銃、1923年(大正12年)から1940年(昭和15年)にかけては十一年式軽機関銃、ないし1930年代後期から敗戦までは九六式軽機関銃(九九式短小銃・小銃装備部隊には九九式軽機関銃)が配備される。


日中戦争以降(1930年代後期以降、帝国陸軍は1937年の歩兵操典草案で本格的な分隊疎開戦闘に移行)当時の日本軍の歩兵小隊火力の中心は、軽機関銃と重擲弾筒であり、1個小隊には小銃のほか第1~3分隊に軽機関銃1挺と、第4分隊に八九式重擲弾筒3門が定数であった。


また、1個大隊にはこれに重機関銃(九二式重機関銃)12挺を擁する1個機関銃中隊、歩兵砲(九二式歩兵砲ないし九七式曲射歩兵砲)2門を擁する大隊砲小隊が付随する。


さらに連隊(歩兵連隊)には山砲(四一式山砲)4門を擁す連隊砲中隊、対戦車砲(九四式三十七粍砲)4門を擁す速射砲中隊が加わり歩兵大隊に直接・間接協力するため、「日本軍は三八式歩兵銃のみで戦った」という俗説はやや誇張されている。