最後の海軍大将 井上成美海軍大将  3 | 戦車兵のブログ

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太平洋戦争


第四艦隊司令長官


1941年(昭和16年)8月11日、第四艦隊(4F)司令長官に親補された。


同期で最初に艦隊司令長官(親補職)に補された。


榎本重治海軍書記官は「井上さん、邪魔にされましたね」と井上に言った。


及川海相に「新軍備計画論」を突きつけ、南部仏印進駐に際しては局部長会報の席で及川海相を怒鳴りつけた井上が、海軍中央から体よく遠ざけられたことに同情しての言葉だった。


井上も「かたちとしては栄転だろうが、態よく中央を追われることになった。


海軍航空強化の意見書(新軍備計画論)も、航空本部在職中に出したので、我田引水、セクショナリズムの論議と取られた」と解していた。



宮城での親補式を済ませ、岩国海軍航空隊から飛行艇で8月21日にサイパン島に到着し、同島に碇泊していた4F旗艦「鹿島」に着任した。


「鹿島」は、直ちに、4F司令部の陸上施設があるトラック(トラック諸島の通称)に向かった。


4F長官となった井上は、トラックの「夏島」にある長官官邸に住み、毎朝、4F旗艦「鹿島」に乗艦して、午前8時の軍艦旗掲揚を「鹿島」艦上で迎え、午後4時に退艦して夏島の長官官邸に戻る日課だった。


太平洋戦争の開戦前、4Fの防備区域は、日本の委任統治領の南洋群島全域、東経130度から175度、北緯22度から赤道まで渡る東西5,000キロ、南北2,400キロの海域であった。


この海域の中には、マリアナ諸島、カロリン諸島(トラックを含む)、マーシャル諸島など、大小1,400の島があった。


しかし、4Fに与えられていた兵力は、独立旗艦の「鹿島」(練習巡洋艦として建造されており、戦闘力はない)以下、旧式軽巡の「天龍型」2隻、旧式駆逐艦、商船改造の特設艦、旧式となっていた九六式陸上攻撃機、九六式艦上戦闘機など僅かでしかなかった。


1941年9月海大図上演習で井上は、ラバウル攻略後、ラエ・サモアまで進出することを主張した。


理由はラバウルを確保するにはソロモン、東部ニューギニアに前進基地を確保する必要があると考えたためである。


宇垣纏中将、山口多聞少将は消極的な意見を述べ、攻略範囲は決まらなかったが、連合艦隊はそれらを加味し、他方面が有利に展開するなら早く実行するとした。


井上は、連合艦隊(GF)司令長官の山本五十六大将から「作戦打合わせのため参謀長及び関係幕僚を帯同して上京せよ」という電報を11月6日に受け取り、随員と共に11月8日にトラックを飛行艇で出発し、横浜航空隊に到着して、東京において11月5日付の「大海令第1号」と「大海指第1号」を受け取った。


さらに、11月13日に岩国海軍航空隊で行われた、GF長官、各艦隊長官、各艦隊参謀長並びに関係幕僚による「作戦打ち合わせ会議」に出席した。各艦隊司令部に、GF司令部から、「機密連合艦隊命令作第1号」が配布された。


井上らは、往路と同じく、横浜航空隊から飛行艇で出発し、11月20日にトラックに戻った。


1941年12月太平洋戦争開始。


「鹿島」の4F司令部では、暗号電文を傍受・解読して真珠湾攻撃の大戦果を知った。


4F通信参謀の飯田英雄中佐(兵51期)が、「鹿島」の長官室にこの電文を持参し、井上に「おめでとうございます」と言った所、電文を見た井上は、ただ一言「バカな」と吐き捨てるように言った。


「いざという時は、内閣に海軍大臣を出さないという伝家の宝刀を抜いてでも開戦に反対すべき」と考えていた井上にとり、めでたいどころではなかった。


開戦以降、4F司令部は第一段作戦において、米国領ウェーク島攻略作戦。


第一回の攻撃(12月11日)は失敗。


真珠湾攻撃から帰投する途中の第一航空艦隊の協力で、同島上空の制空権を確保しての第二回の攻撃(12月23日)で攻略成功。


開戦前から4Fに編入されていた基地航空部隊の第24航空戦隊は、1942年(昭和17年)4月10日の基地航空兵力戦時編制の改編で4Fから外され、11航艦の指揮下に移され、4Fの戦力は減少した。


開戦後に新編成され、ラバウル・ソロモン方面に展開し、MO作戦に参加した第25航空戦隊も、11航艦の指揮下であった。


第二段作戦において、1942年5月珊瑚海海戦(MO作戦)。


作戦目標はポートモレスビーの海路からの攻略であった。


井上は4F旗艦「鹿島」をラバウルに進めて指揮を執った。


海軍省・軍令部やGF司令部は、4F司令部の珊瑚海海戦での指揮を批判した。


井上の下で、4F航海参謀であった土肥一夫少佐は、1942年(昭和17年)7月にGF参謀に転出した。


GF司令部に着任した土肥が、4F司令部から提出された珊瑚海海戦に関する報告書類、当時の電報綴りを見ると、赤字で「弱虫!」「バカヤロー」などと多くの罵詈雑言が書き込まれていた。


GF参謀長の宇垣纏少将は、日誌「戦藻録」の1942年(昭和17年)7月5月8日の項に「4Fの作戦指導は全般的に不適切であった。


小型空母「祥鳳」を失っただけで、敗戦思想に陥っていたのは遺憾である」旨を書いている。


軍令部第一部第一課作戦班長であった佐薙毅中佐は、日誌に「4Fの作戦指導は消極的であり、軍令部総長の永野修身大将は不満の意を表明していた」旨を書いている。


1942年(昭和17年)5月7日、珊瑚海海戦の第1日に、米国機動部隊の攻撃で小型空母「祥鳳」が沈んだ時の心境を、井上は、珊瑚海海戦の後に書いたと推定される手記に「実に無念であった。このような時に、東郷平八郎元帥であればどうなさるだろうかと考えた。


心中、 『お前は偉そうに4F長官などと威張っているが、お前は戦が下手だなあ』 と言われているような無念を感じた」という趣旨の記述をしている。


敗戦後、新聞 『東京タイムズ』 1951年(昭和26年)12月10日付に、横須賀市長井に隠棲していた井上のインタビュー記事が掲載された。


その記事の中で、井上は「自分は(4F長官として南方作戦を指揮したが、)戦が下手で、幾つかの失敗を経験し、昭和17年10月海軍兵学校の校長にさせられた時は、全くほっとした」と語っている。

日本軍が南洋群島の東と南に占領地を広げると、その地域も4Fの担当戦域となった。


ウェーク島、南東方面(ラバウル・ニューギニア・ソロモン諸島)など。


第11航空艦隊(司令長官は塚原二四三中将)麾下の基地航空隊がマーシャル諸島に展開したが、4Fが補給を担当していたものの、手こずっていた。


ミッドウェー作戦の前、トラックの4F司令部にGFから参謀が説明に来て「ミッドウェー占領後の補給は4Fに担当して頂く」と告げた。


4F先任参謀の川井巌大佐が、空母2隻基幹の航空戦隊を4Fにつけてくれなければミッドウェーへの補給など出来ない、と反論した所、ミッドウェーへの補給は11航艦が行うことになったという。


マーシャル群島に展開し、4Fから細々と補給を受けている11航艦が、さらに2,200キロも先のミッドウェーへの補給を出来る訳がなかった。


もともと担当していた南洋諸島全域に加えて、ウェーク島方面、南東方面を4Fが担当するのは無理があった。

1942年(昭和17年)7月14日に南東方面を担当する第八艦隊(8F)が編成され、同月24日にラバウルの陸上に8F長官の三川軍一中将(兵38期)が将旗を掲げ、8Fの統帥を発動した。


1942年7月中部ソロモン方面に陸上機の基地建設を検討していた第4艦隊長官井上は、ガダルカナル島の基地設定に着手した。


日本軍の最前線基地であったラバウルからは直線距離で1,020キロ離れていた。


飛行場建設によるガ島進出は失敗に終わる。


井上の責任として以下が挙げられる。


ガダルカナル島への飛行場建設の前段階において、1942年(昭和17年)5月にソロモン群島南端のツラギ島を日本軍が占領し、水上機基地を設け、大型飛行艇を主力とする水上機偵察部隊である横浜海軍航空隊(横浜空)が進出した。


基地航空部隊の作戦に責任のない4Fは、この頃(ガダルカナル島への飛行場建設が検討されていた1942年(昭和17年)5月-6月か)、幕僚をツラギ上空に飛ばして現地の状況を視察させた形跡はなく、戦後になっても軍令部の航空担当部員はガダルカナル島に飛行場が建設中であることを知らなかったという。(陸軍側の)参謀本部は知る由もなかった。


陸軍は、ガダルカナル島を巡る大悲劇の根本原因は、海軍が勝手に飛行場を作ったことにあるという。

一方で以下のような事情もあり、陸軍側に知らせがあった可能性もある。


ツラギ島に進出している横浜空司令の宮崎重敏大佐(兵46期)から、上官である第25航空戦隊司令官の山田定義少将(兵42期)に「ツラギ島対岸のガダルカナル島に、飛行場建設の適地あり」という報告があった(日本軍がツラギ島を占領したのは5月3日、横浜空の飛行艇のツラギ進出は翌4日。)。


5月25日に、25航戦と第8根拠地隊(8根。司令部はラバウル、司令官は兵39期の金沢正夫少将)の幕僚・技術者を乗せた九七式飛行艇によって、ガ島を中心とするラバウル以南の島々の航空偵察が行われた。


この偵察結果を受けて、山田25航戦司令官は、6月1日に、上級司令部である第11航空艦隊(司令長官塚原二四三中将)の参謀長である酒巻宗孝少将に調査結果を報告し、「急ぎ、ガダルカナル島への飛行場建設に取りかかるべし」と意見具申した。


ミッドウェー海戦(6月5日-7日)の後に、11航艦司令部からの報告を受けたGF司令部は、ラバウルからガ島が遠すぎることを理由に難色を示した。


零戦の航続距離では、ラバウルを基地として、ガ島上空の制空権を確保できず、ラバウルとガ島の中間にもう一つの基地が必要になるため。


GFの要望に基づき、25航戦は、ラバウルとガ島のほぼ中間にあるブーゲンビル島・ブカ島を2度にわたり調査したが、「いずれも地勢に難があり、ガ島への飛行場造成以上に日数を要する」という結論となった。


なお、25航戦にはミッドウェー海戦で日本が主力4空母を喪失したことが知らされていず、この方面の制空権は容易に確保できるという考えがあった。


6月19日、GF司令部は、参謀長の宇垣纏中将の名で「ガダルカナル航空基地は次期作戦の関係上、八月上旬迄に完成の要ある所見込承知し度(たし)」と現地部隊に訓電した。GF司令部の訓電を受けた『現地部隊』の25航戦、8根、及び、『この方面の総指揮を執る』4F司令部から参謀が派遣され、再度のガ島上空からの航空偵察が行われた。


ガ島のルンガ川東方、海岸線から2キロ入った所が飛行場建設に最適と結論した。


GF司令部は、ミッドウェー攻略作戦のために編成されていた第11設営隊、ニューカレドニア攻略作戦のために編成されていた第13設営隊の2個設営隊をガ島飛行場建設に当たらせることを決意し、両設営隊の本隊を乗せた輸送船団は、6月29日にトラックを出港、7月6日にガ島に上陸した。


設営隊本隊のガ島上陸の翌7月7日、(海軍)軍令部作戦課は、(陸軍)参謀本部作戦課に「FS作戦の一時中止」を正式に申し入れる文書を提示しており、その文書に「ガダルカナル陸上飛行基地(最近造成に着手、8月末完成の見込)」と記されている。


しかし、当時の参謀本部作戦課長の服部卓四郎大佐、陸軍省軍務局長の佐藤賢了少将は、戦後に公表した手記に「ガ島飛行場建設のことは全く知らなかった」と書いている。


ガ島に飛行場を建設することについて、海軍中央に意見具申したのは、11航艦 → 25航戦 → 横浜空のラインであり、ガ島に飛行場を建設する決心をしたのはGF司令部である。


軍令部が、ガ島に飛行場を建設することを承知しており、参謀本部に通知していた。


1942年(昭和17年)7月14日に8Fが編成されるまで、この方面を管轄していた4Fは、11航艦の隷下部隊をサポートする形で関与し、ガ島への飛行場建設が決定する前に、4F幕僚が現地を視察している。

トラック所在の第四海軍軍需部の少女傭員奥津ノブ子(当時15歳)を可愛がった。


太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)夏に、邦人婦女子が内地へ送還されることになり、奥津も「ぶら志゛る丸に乗って内地へ向かったが、出港翌日に「ぶら志゛る丸」は米国潜水艦に撃沈された。


1942年(昭和17年)8月5日の深夜であった。1隻のカッターと3隻の救命艇が救助した生存者は、23日もの漂流の末、日本の飛行機に発見され、救助船が向かってトラックに戻ることが出来たが、奥津は生存者の中に入っていた。


生還した奥津が、井上の所に挨拶に来た時、艦隊司令長官たる井上が、一介の傭員に過ぎない奥津の前で正座して「申し訳ない」と言い、深々と頭を下げ、ポケットマネーで購入した身の回り品や当座の生活資金を与えた。


井上が兵学校長に転じてトラックを去る日、奥津は長官用自動車に乗ることを許され、井上が乗る九七式飛行艇が横付けされた桟橋まで行って井上を見送った。


奥津は、1943年(昭和18年)3月に便船を得て内地に帰還でき、以後は神奈川県の小田原に住んだ。


奥津は、海軍兵学校長として広島県江田島にいた井上に手紙で帰国を知らせ、井上は奥津が無事に内地に帰還したことを祝う手紙を出し、以後、敗戦までの2年ほど、井上は奥津と文通をしていた。


1944年(昭和19年)、井上が海軍次官として東京に戻ると、奥津は土産の梨を持って海軍省に井上を訪ねた。


敗戦の混乱で井上と奥津の音信は途絶えたが、1949年(昭和24年)に、井上が奥津の戦前の小田原の住所に手紙を出してみた所、その住所に戦後も住んでいた奥津から落花生の小包が井上に届き、文通が復活した。


軍人恩給の復活(1953年(昭和28年)まで、英語塾の僅かな月謝以外の収入がなく「貧民のような食生活」を余儀なくされていた井上は、栄養のある落花生の贈り物を大いに喜んだ。


1963年(昭和38年)6月には、奥津が長井に隠棲する井上を訪ね、21年ぶりの再会が叶った。


奥津は、井上からパラオ出張の土産に贈られた鼈甲のコンパクト、「ぶら志゛る丸」沈没後にトラックに生還した際に井上から贈られた絹の靴下(奥津は、一度も足を通さずに保存していた)を、井上の没後も大事にした。


10月7日に、トラック島在泊の第四艦隊旗艦「鹿島」坐乗の井上は、同じくトラック島在泊のGF旗艦「大和」坐乗の山本五十六GF長官(兵32期)に「大和」へ招かれた。


海軍兵学校長から、10月1日付で11航艦長官(ラバウルの陸上に司令部を置く)に親補された、井上と海兵同期の草鹿任一中将が、内地からラバウルへ赴任する途中にトラック在泊の「大和」に立ち寄ったので、山本が草鹿を主賓とする夕食会を開き、井上も呼んだものである。


この夕食会で、山本は井上が草鹿の後任の兵学校長に決定しており、海軍大臣の嶋田繁太郎大将から相談され、井上を兵学校長に推薦したのは山本自身だと告げた。


この夜、草鹿の申し出によって、井上は宿舎で草鹿から兵学校長の引き継ぎを受けた。