タラワの戦い | 戦車兵のブログ

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タラワの戦い(英語: Battle of Tarawa)とは、第二次世界大戦中の1943年11月21日から11月23日にかけて、ギルバート諸島タラワ環礁ベティオ島(現在のキリバス共和国)で行われた日本軍守備隊と米軍との戦闘。


米軍はガルヴァニック作戦(Operation Galvanic)の一環として実施した作戦であった。


連合国側


アリューシャン、ソロモン諸島方面で勝利を収めた米海軍は1943年の夏頃には中部太平洋への侵攻が可能となった。


そのため、1943年の初めから中部太平洋への侵攻作戦を計画していたアメリカ統合戦略委員会は米海軍とともに中部太平洋侵攻作戦の準備を始めた。


しかし、南太平洋最高司令官であるダグラス・マッカーサーはニューギニアからフィリピンに至るカートホイール作戦の実施を主張し、この計画に反対したため、米陸軍と米海軍で意見が分かれた。


しかし、最終的にアメリカ統合戦略委員会はカートホイール作戦のみでは日本軍に側面から脅かされると判断し、カートホイール作戦の実施と共に中部太平洋を西(日本の方角)に向かって進撃することを決定し、さらに8月21日から8月24日の間にはカナダのケベックでアメリカ合衆国、イギリス、カナダ、フランスの四箇国が会談し、中部太平洋への侵攻作戦の具体案を決定した。


そして、その攻撃の最初の矛先となったのはギルバート諸島のマキン、タラワ、アベママの三島であった。


日本側


一方、日本軍は開戦直後にギルバート諸島を攻略したが、マキン環礁にわずかに守備兵を置いたほかは、タラワなどには部隊を駐留させなかった。


この脆弱な守備態勢を見直すきっかけとなったのが、1942年8月17日、221名のアメリカ海兵隊が2隻の潜水艦に分乗してマキンに奇襲上陸した事件だった。


この攻撃は日本軍の戦線を攪乱させるために行われた作戦だが、これによりかえって日本軍にギルバート諸島の戦略的な重要性を気づかせることとなった。


日本海軍は横須賀第6特別陸戦隊などを送って、1943年2月15日にはギルバート方面を担当する第3特別根拠地隊(横須賀第6特別陸戦隊改編)を新編成し、地上防護施設や航空施設の増強を始めた。

特にベティオ島は地下陣地による全島の要塞化を目指し、陸上には鉄道レールを骨組みにした地下戦闘司令所や、椰子の丸太で作られた半地下式のトーチカが建設された。


この半地下式トーチカは直径20cm以上の丸太を2mの幅で2段に重ね、その中間に岩や土を詰め込んだものであり、各トーチカは地下壕で連絡されていた。


さらにすべてのトーチカは射線が有機的に連携しており、死角がまったくなかった。


要塞化が行われたのは陸上だけでなく、海岸にも丸太で組んだ防壁が設置され、海中にも丸太と角材を二重にしばりつけた防塞が置かれた。


主戦力の佐世保第7特別陸戦隊は、軽戦車なども持った海軍陸戦隊としては精鋭の部隊だった。


1943年7月にギルバートの防衛指揮官として着任した第3特別根拠地隊司令官柴崎恵次少将は、島の防御施設を視察して「たとえ、100万の敵をもってしても、この島をぬくことは不可能であろう」と豪語したと言われている。



両軍の兵力


日本軍(海軍部隊のみ)


第3特別根拠地隊本隊(柴崎恵次 少将)902名


佐世保第7特別陸戦隊 1669名(菅井武雄 中佐) 大隊指揮小隊


小銃中隊 1個中隊:指揮小隊


軽機関銃小隊(軽機関銃、軽擲弾筒)


機関銃小隊(重機関銃、重擲弾筒分隊)


砲隊(山砲、歩兵砲)


高射砲隊(7cm野戦高射砲、13mm高角機銃)


戦車隊(九十五式軽戦車)


輸送隊(トラック、大発、サイドカー)


第755航空隊基地員 30名


第111設営隊 1247名(主に軍属。朝鮮出身の労務者を含む。)


第4建築部タラワ派遣設営班 970名(同上)


計約4800名



米軍


中部太平洋部隊:第5艦隊(レイモンド・スプルーアンス 中将)


第54任務部隊(進攻軍 リッチモンド・K・ターナー 少将)


第5水陸両用軍団司令部(ホランド・スミス 少将)


第53任務部隊(南方攻撃軍 ヒル少将) 第53.1任務群(掃陸輸送艦、駆逐艦)


第53.2任務群(掃海艇)


第53.4任務群(戦艦、重巡、軽巡、駆逐艦)


第53.5任務群



第2海兵師団(ジュリアン・スミス 少将) 第2海兵隊連隊


第6海兵隊連隊(第5水陸両用軍団予備)


第10海兵隊連隊(師団砲兵)


第18海兵隊連隊(師団工兵)


第2戦車大隊


第2水陸両用トラクター大隊


第53.6任務群(護衛空母、駆逐艦)



計約35000名


戦闘経過


上陸前


1943年11月10日、レイモンド・スプルーアンス中将指揮のマキン・タラワ侵攻部隊はハワイの真珠湾を出撃した。


11月19日にタラワとマキンへ同時に事前攻撃が始まり、これより3日間、タラワは米軍の砲爆撃を受けた。

11月21日


11月21日午前4時、タラワ環礁の外側にいた米軍の輸送船から上陸第1波である125両のLVTが発進した。


舟艇群は環礁の西側の水路から礁湖への侵入を試みたが、日本軍の西海岸の砲台が反撃し、上陸部隊は大損害を被ることとなった。


これに対し、米軍は派遣艦隊の旗艦である戦艦メリーランド(USS Maryland, BB-46) が艦砲射撃で反撃し、その主砲で日本軍の西海岸砲を制圧した。


なお、この時一発の砲弾が日本軍の弾薬庫に命中し、島を揺り動かすほどの爆発が起こった。

この後、米軍は島の砲陣地や機銃陣地に対して再び艦載機による攻撃を加え、午前6時20分には戦艦3隻、巡洋艦5隻が艦砲射撃を開始した。


日本軍守備隊はそれぞれの陣地で配置についていたが、艦砲射撃により電話線が修理不可能となるほどの被害を受け、命令がうまく伝わらなくなった。


そのため守備隊の各隊は統一的な指揮を失い独立行動をとらざるをえなくなった。


米軍は礁湖内にも駆逐艦2隻を進出させて海岸線を砲撃した。


これに対し、まだ残っていた日本軍の海岸砲が発砲し、1隻に命中弾をあたえた。


しかし、この命中弾は不発弾であり、駆逐艦の航行に支障はなかった。


そして駆逐艦の掩護を受けながら、再び米軍の第1次上陸部隊は海岸を目指した。


米軍は3個大隊の兵力を6波に分け、まず海兵隊員を乗せた第1波から第3波まではLVTで3分間隔で発進し、その後に戦車や野砲等の重装備を積んだ第4波以降の舟艇群が続いた。


各波の上陸地点は西から第1大隊は「赤1区域」、第2大隊は「赤2区域」、第3大隊は「赤3区域」と分けられ、それぞれ担当する海岸の幅は約360mであった。

上陸地点の450m手前にはリーフがあった。


そのリーフに第1波の上陸部隊が近づいた時、日本軍守備隊は砲撃を開始し米軍に甚大な被害を与えた。


舟艇群に対し日本軍は海岸砲と機銃による攻撃を加え、ほとんどのLVT水陸両用車は海岸にたどり着く前に命中弾を受けた。


難を逃れたLVTは1ヵ所に集まってリーフを乗り越えたが、海岸に辿り着いたLVTも損傷が激しく、それ以上は動けなくなった。


第4波以降の上陸部隊も続々とリーフに辿り着いたが、LVTではなく上陸用舟艇であったため、リーフを乗り越えることができなかった。


リーフ上の水深は60cm~90cmしかないのだが、上陸用舟艇は最低でも1.2mの水深がないと動くことができなかったからである。


そのため第4波以降の上陸部隊は装備を頭上にかかげ、海岸への徒渉上陸を試みた。


しかし、リーフの先から海岸までの450mは再び深い海であり、重い装備のため海に沈む者が続出した。


更に、そこへ日本軍守備隊が海岸から機銃で攻撃を加えたため、海岸にたどりつけた者はほとんどいなかった。


わずかに海岸にたどり着いた者は奥行き60m程度しかない砂浜の陸地側にある、高さ1.2mの防壁の側に身を潜めた。すでにこの時点で上陸した米兵約5000名のうちその3分の1は死傷していた。


上陸部隊の苦境を見た攻撃隊指揮官のデビット・シャウプ大佐は連隊予備の前線参加を命じ、さらなる艦砲射撃と航空支援を要請した。


要請に基づき、島は再び砲爆撃を受けた。


この時の砲爆撃に際して、米軍は海岸の上陸部隊から日本軍陣地を無線電話で誘導し、命中精度が向上した。


同じ頃、ジュリアン・スミス師団長は師団の予備兵力である海兵1個連隊の投入を決定した。


一方、二度目の艦砲射撃により日本軍の死傷者は急増していた。


これを見た柴崎少将は戦闘司令所を負傷者の治療所に提供し、自らは参謀や司令部要員を連れて外海側の防空壕に移った。


しかし、その防空壕に直撃弾が命中し、柴崎少将は戦死した。

司令官を失った日本軍であったが、兵たちの士気は衰えることなく、守備隊はトーチカなどの陣地にこもって抵抗した。


これに対し米軍は火炎放射器や爆薬で対抗し、1つ1つのトーチカを潰して廻った。


そのためこの日の夕方までに米軍は「赤1区域」の西半分の縦深140mと「赤2区域」と「赤3区域」の境界の桟橋を幅460m、縦深260mにわたって確保することに成功した。


米兵たちはこの日の夜、海岸に身を潜めていたが、日本軍は上陸した米軍に対して夜襲を行わず、夜闇に紛れて破壊されたトーチカに兵員を送り込んで再編成を行い、海岸にあるLVTを奪って米兵の背後を確保し、海岸から約600mの所に座礁していた輸送船「斉田丸」の残骸に機銃を据え付け、翌朝の米軍の攻撃に備えた。

11月22日


翌11月22日午前6時、米軍の増援部隊が海岸へ向けて進撃を開始した。


これに対し、まだ健在であった日本軍の海岸砲や迫撃砲が砲撃を開始し、「斉田丸」からも機銃攻撃が行われた。


この攻撃により、米軍は再び大損害を被った。


特に「斉田丸」からの機銃攻撃は絶大な効果を挙げていた。


米軍は「斉田丸」に対し航空攻撃を行った。


まず、F6F戦闘機4機が来襲し、機銃掃射を開始した。


しかし、「斉田丸」を沈黙させることはできなかった。


続いて小型爆弾を抱えたF6F戦闘機が3機来襲した。


「斉田丸」に対し1番機、2番機は至近弾を与え、3番機は直撃弾を与えたが、「斉田丸」の機銃陣地は無傷であった。


この後もさらに「斉田丸」に対する攻撃は続けられ、今度は12機のF6F戦闘機が来襲した。


12機の戦闘機は次々に爆弾を投下するものの「斉田丸」に直撃弾を与えられず、ようやく1発だけ命中した。


だが、それでも「斉田丸」の機銃陣地は無傷であった。

これを見た米軍は工兵部隊による決死隊を編成して「斉田丸」に近づき、高性能爆薬を仕掛けた。


その高性能爆薬により「斉田丸」は大爆発を起こし、「斉田丸」の日本軍の機銃陣地は沈黙した。


「斉田丸」を制圧した後、午後3時に米軍の1個大隊は「緑区域」と呼称された西海岸に上陸を開始した。


この1個大隊は後から上陸した軽戦車中隊とともに島の南岸沿いを進撃した。


そして、この日の終わりまでに「赤1区域」、「赤2区域」、「赤3区域」から上陸した米軍は南海岸に達し、日本軍の兵力と東西に分断することに成功した。

11月23日


翌11月23日、米軍は最後の1個大隊を「緑区域」に上陸させた。


これにより米軍は予定の兵力をすべて投入し、戦闘も収束しつつあったので、スミス師団長は陸上で指揮を執った。


もっともこの時点でも、まだ「赤1区域」などで日本軍守備隊は抵抗していた。


米軍の激しい攻撃により守備隊は後退していき、東地区守備隊の生き残り約350名は飛行場の東端陣地に集結したが、そこでもさらに消耗していった。


分断された西地区でも守備隊が抵抗を続けていた。


そして、この日の夜、日本軍の残存守備隊約110名は最後の突撃を敢行した。


突入は3回にわたって行われ、1,2回目は2,30名、3回目の突入は50名で行われた。


だが、いずれも同一地点を攻撃したため、米軍の被害は軽微だった。


同じ頃、西地区守備隊約50名も同様に玉砕した。


この戦闘によりタラワの戦いは終結した。


日本軍の救援作戦


タラワの戦いの間、アメリカ軍の来襲を知った日本軍は、救援のために以下のような作戦をおこなっていたが、十分な成果を上げることは出来なかった。


まず連合艦隊は、上陸のあった21日に、ポンペイ島にいた陸軍甲支隊の派遣を決めた。軽巡3隻、駆逐艦2隻、輸送船2隻からなる輸送部隊と、重巡4隻、駆逐艦6隻からなる邀撃部隊を編成し、26日までにマーシャル諸島のクェゼリンに進出させた。


しかし、タラワからの通信が22日の午前中から途絶し続けたために、甲支隊の派遣は中止された。


つぎに連合艦隊は潜水艦9隻をギルバート海域に進出させ、米海軍機動部隊の攻撃及び索敵を行った。


その結果、24日に伊175潜(田畑直艦長)がマキン沖で護衛空母リスカム・ベイ(USS Liscome Bay, CVE-56)の撃沈に成功したが、日本軍は引き換えに潜水艦6隻を失った。


また、マーシャル諸島のルオットから出撃した海軍航空隊による反撃も行われた。


21日にはギルバート沖のアメリカ機動部隊を目標としたギルバート諸島沖航空戦が展開され、軽空母インディペンデンス(USS Independence, CV/CVL-22)を大破させた。


22日には陸攻9機、戦闘機39機が発進したが、天候不良のため途中で引き返した。


この攻撃隊は陸攻の魚雷を爆弾に積み替えて、タラワ上陸部隊の昼間攻撃に再び発進したが、これも天候不良のため途中で引き返すこととなった。

22日の夜にルオットを発進した陸攻4機は深夜、タラワ上空に到着した。


陸攻は米軍の上陸地点と思われる地点を二航過して爆弾8発を投下し、米軍は戦死者1名戦傷者8名を出した。


しかし、アメリカ軍によれば、この爆撃は日本軍陣地にも着弾してしまい、日本軍にも被害が出たと思われるが詳細は不明である。

両軍の損害


戦闘の結果、タラワ島を守備した日本軍は、文字通り全滅した。


捕虜となって生き残った者は、負傷して意識不明の状態で捕えられた者などごく一部だけであった。


河津幸英は日本側の死亡率が著しく高い理由を、アメリカ軍が、負傷したりして無抵抗の日本兵・軍属までも皆殺しにしたためであると推定している。


また、日本兵には、捕虜になることを避けるため自殺した者もあった。


アメリカ軍が日本兵を徹底的に殺害した背景として、日本軍が降伏せずに最後まで抵抗する傾向があったため、掃討戦を十分に行う必要があったからとする見方もある。


一方、アメリカ軍の人的損害も極めて大きなもので、恐怖のタラワ・マキンと呼ばれるほどであった。


本島の戦いおよびマキンの戦いでの苦戦は、アメリカ軍が水陸両用作戦の改良に力を入れるきっかけとなった。


日本軍 戦死者 4713名


生存者 軍人 17名


内地出身軍属 14名


朝鮮出身軍属 129名


米軍


戦死者 1009名


戦傷者 2296名