6月18日はおにぎりの日 | 戦車兵のブログ

戦車兵のブログ

元陸上自衛隊の戦車乗員である戦車兵のブログ
北海道在住でマニアックなメカとしての戦車じゃなく、戦車乗りとしての目線から自衛隊や戦史、戦車を見る!!。
ブログの内容・文章・画像を許可無く無断転載を禁じます。
悪質な場合は著作権侵害となりますのでご注意下さい。


6月18日「おにぎりの日」です。


町内の遺跡で日本最古の「おにぎりの化石」が発見されたことから「おにぎりの里」として町起こしをしている石川県鹿西町(現 中能登町)が制定。


「鹿西」の「ろく」と、毎月18日の「米食の日」から。


日本人はいつからおにぎりを食べていたのか。


1987年に石川県「杉谷チャノバタケ遺跡」から、石ころほどの炭化した米の塊が発見された。


これが弥生時代の「日本一古いおにぎりの化石」とされている。当時のおにぎりは三角形だった。


 おにぎりに関する日本最古の記述は、平安時代の「源氏物語」。


ここで登場する「屯食」は、おにぎりの原型といわれている。鳥の卵と似ていることから、「鳥の子」とも呼ばれたという。


 おにぎりの駅弁第1号は、明治18年に宇都宮駅で販売されたものといわれる。ゴマをまぶした梅干しのおにぎりにたくあん漬けを添えて、竹皮で包んだものだったとか。


学校給食は明治22年、山形県鶴岡市の私立忠愛小学校がその発祥とされ、献立はおにぎり、焼き魚、漬け物だったそうだ。

「海外移住の日」


国際協力事業団(JICA)が1966年に制定。


1908年のこの日、本格的な海外移住の第一陣781人を乗せた笠戸丸が、ブラジルのサントス港に到着した。


支那や朝鮮人、他国で食えないから日本へという外国人の移住は阻止したいね。


「考古学出発の日」

1877年のこの日、大森貝塚を発見・発掘したアメリカの動物学者、E.S.モース博士が来日した。

6月20日、モース博士が汽車で横浜から新橋へ向かう途中に貝殻が堆積しているのを発見し、まもなく発掘調査が行われた。これが日本で初めての科学的な発掘調査で、日本の考古学の出発点となった。





考古学の日の6月18日の歴史。

1429年 百年戦争・パテーの戦いで、ジャンヌ・ダルクに率いられたフランス軍がイングランド軍に圧勝。

1812年 アメリカ合衆国がイギリスに宣戦布告。米英戦争が勃発。

1815年 ワーテルローの戦いでナポレオン軍がイギリス・プロシアなどの聯合軍に敗れる。エルバ島を脱出して皇位に復帰して以来の「百日天下」が終る。

1868年 明治政府が布告により「大坂」の表記を「大阪」に統一。(新暦8月6日)


1908年 日本からの移住者781人を乗せた笠戸丸がブラジルのサントス港に到着。

1940年 フランスのドイツ降伏後ロンドンに亡命したド・ゴールが、フランス国民に対独抗戦を呼びかける。

1945年 沖縄で負傷兵看護に当たった「ひめゆり部隊」に解散命令。翌日から1週間の間に24万人のうち13万人が死亡。

1946年 東京裁判のアメリカ側主席検事キーナンが「天皇を戦争犯罪人として裁判しない」と言明。


1953年 エジプトで君主制の廃止が宣言され、エジプト共和国が成立。


1953年 米軍のC-124輸送機が東京都小平市の畑に墜落。乗員129名全員死亡。

1959年 海上自衛隊のむらさめ型対空護衛艦「はるさめ」(DD-109)が進水。


1959年 第2次岸信介改造内閣が発足。


1969年 海上保安庁が海底地形図を制作。


1973年 内閣が「当用漢字改訂音訓表」を告示。音読み86、訓読み271を追加。


1979年 ウィーンで「米ソ戦略兵器制限条約」(SALT II)に調印。

1983年 中華人民共和国・全国人民代表大会で国家主席に李先念、中央軍事委員会主席にトウ小平を選出。


1985年 悪徳ペーパー商法で総額2千億円をだまし取った豊田商事の永野一男会長が、自宅に押し入った2人組に刺殺される。

1989年 ビルマが国名を「ミャンマー」に改称


1993年 宮沢喜一内閣不信任案に羽田派などの自民党議員が賛成し可決。衆議院解散、政界再編
へ。



6月18日の誕生花

木立麝香草[きだちじゃこうそう] Thyme花言葉:勇気


柳 Willow花言葉:憂い


アリウム(花葱[はなねぎ]) Onion花言葉:深い悲しみ





6月18日が誕生日な人々

1845年 シャルル・ルイ・アルフォンス・ラヴラン (仏:軍医,寄生虫学者,熱帯医学・原虫性疾患の研究)Charles Louis Alphonse Laveran1907年ノーベル生理学医学賞[1922年5月18日歿]

1934年 横山光輝[よこやま・みつてる] (漫画家『鉄人28号』『魔法使いサリー』)[2004年4月15日歿]


代表作に『鉄人28号』、『伊賀の影丸』、『仮面の忍者 赤影』、『魔法使いサリー』、『コメットさん』、『バビル2世』、『三国志』等多数。長年にわたり幅広いジャンルで活躍し、手塚治虫、石ノ森章太郎などと並び称された漫画界の巨匠の一人である。


2004年4月15日朝方、東京都豊島区千早の自宅で発生した火事で全身火傷を負って意識不明の重体となり、同日22時に日本大学医学部附属板橋病院にて死去した。


69歳没。寝煙草の不始末から出火し、数年前に足を骨折した後遺症のため避難できなかったことが原因。遺作は2005年1月に完結した『殷周伝説』であった。

1990年 谷村美月[たにむら・みつき] (女優)





6月18日が命日な人々

1916年 ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ(小モルトケ) (独:軍人,ドイツ帝国参謀総長) <68歳>Helmuth Johann Ludwig von Moltke[1848年5月25日生]


ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ(Helmuth Johann Ludwig von Moltke, 1848年5月25日 - 1916年6月18日)は、ドイツ帝国の軍人。ドイツ帝国参謀総長。伯父ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ(大モルトケ)と区別して小モルトケと呼ばれる。シュリーフェン・プランを修正実行し、自らの先入観で第一次世界大戦を事実上開始した。



アルフレート・フォン・シュリーフェンの後任として、1906年から参謀総長を務める。

祖父ヴィルヘルム1世に倣い「自分のモルトケを持ちたい」と願う皇帝ヴィルヘルム2世の強い推挙によるものであり、軍部には不評な人事であった。


第一次世界大戦勃発直前の1914年7月、モルトケ参謀総長は同盟国オーストリア=ハンガリー帝国の対セルビア軍事行動を無条件で支持することを表明し、これに縛られたドイツ外交はオーストリアが希望する戦争以外の選択肢を失ってしまったため、モルトケは大戦勃発の最大の責任者の一人とみなされている。


「シュリーフェン・プラン」の修正案を立案し実行、それを以って大戦冒頭の西部戦線での攻勢を行った。


しかし、シュリーフェンの「右翼を厚く」という遺言にもかかわらず、むしろ均等に割り振り、中央部を厚くした。

このため右翼をやや小さくし、回転半径も小さくした。そしてプランそのもののダイナミズムが削がれた。


シュリーフェン・プランの原案は当時の補給技術を考えれば実現不可能な物ではあったが、その修正案でも最終的に兵站上の問題は先送りにされたままだった。


結果的にマルヌの戦いでドイツ軍の攻勢は頓挫。そのときモルトケは「陛下、この戦争は負けです!」という電報を送ったといわれる。


その責を負って、1914年9月に参謀総長を辞任した。

1974年 ゲオルギー・ジューコフ (ソ連:軍人) <77歳>Georgy Konstantinovich Zhukov[1896年11月19日生]


ゲオルギー・コンスタンチノヴィチ・ジューコフは、ソビエト連邦の軍人、政治家。第二次世界大戦期を通じてソ連で最も活躍した軍人の一人で、ソ連邦元帥まで昇進した。


1915年、第一次世界大戦中のロシア帝国に19歳で徴兵され、一兵卒として第5予備騎兵連隊に配属された。1916年春、下士官としての教育のために、第10竜騎兵連隊に配属。ジューコフは大戦中の勇敢な戦いにより、聖ゲオルギー十字勲章を2回授与され、上等兵(下士官)に昇進した。


ロシア10月革命が勃発すると、ソ連共産党に加入した。


彼の生まれ育った貧困な環境がその原動力になっていたと考えられている。


チフスを一時期患った後、1918年から1920年にかけて赤軍の一員としてロシア内戦を戦い、農民の反乱を鎮圧した功績により赤旗勲章を授与された。


1923年に騎兵連隊長、1930年5月には騎兵旅団長と昇進を重ねた。


後に、赤軍騎兵監察官補佐官、第4騎兵師団長、第3騎兵軍団長、第6騎兵軍団長を歴任。


ジューコフは、軍隊の機械化および戦争における機械化部隊の運用という新しい理論の強力な提唱者の一人であり、また彼の立てる計画の緻密さ、厳しい訓練や厳格な規律の実施は有名であった。

1937年から1939年におよぶスターリンによる赤軍の大粛清を生き残ったが、依然として政治的に不穏な情勢にあったモスクワを避けて、1938年第1ソビエト・モンゴル軍集団の司令官に就任した。


そこでは、日本の樹立した満州国とモンゴルの国境地帯において、日本の関東軍との間に何度も小競り合いが起きていた。関東軍にとって最初は、ソ連の国境防衛能力を試す意図があったが、急速に大規模な戦闘に発展したことを受け、最終的に戦車500両以上、航空機500機以上、兵員数万人が投入されることとなった(ノモンハン事件、ソ連側の呼称・ハルハ河事件)。


事前の入念な作戦準備、特に後方の整備と兵站を非常に重視していたジューコフはまず輸送体制を組織し、充分な戦争資材が集積されるのを待ったのち、1939年8月20日より関東軍に対する反撃を開始した。


砲兵の支援のもと、自動車化された歩兵と、2個戦車旅団が戦線の両翼を進撃する大胆な機動を行って第6軍 (日本軍)を包囲し、第23師団を壊滅させるなど大打撃を与えた。


2週間の内に関東軍は撤退し、その後、国境線はソ連・モンゴルの主張通り確定された。


この功績により、ジューコフは「ソ連邦英雄」の称号を与えられた。


しかしソ連以外では、この戦いはあまり知られず、ジューコフの機械化部隊の機動的運用という革新的戦術も、当時の西欧諸国に注目されることはなかった。


この戦術が周知になるのは、のちのナチス・ドイツによるポーランドやフランスへの電撃戦を待たねばならなかった。


しかしソ連の戦術は基本的に、圧倒的な兵力と物量で戦場の制圧を狙うもので、その勝利の基準は損害の寡多ではなく、目的を達成できたかどうかであった。


ジューコフは全軍歴を通じ指導した作戦のほぼ全てで勝利を収める輝かしい戦績を持っている一方、彼の作戦ではソ連軍はほとんど常に敵の数倍の死傷者を出し、第二次大戦におけるソ連軍の死傷者数は、ドイツ軍の5倍に達する。


ジューコフは、ソ連軍が戦闘技術や兵員の基本的資質では敵より劣っていること、一方で強みは物量にあることを認識していた。


そして勝利のためには、敵の数倍の自軍兵士の人命を消耗する必要があることを、最初から必須の前提と考えていた。


自国兵士の膨大な死傷者数に動じないジューコフの冷酷さには、スターリンですら感銘を受けるほどだった。


1940年5月初め、スターリンはジューコフを認め、キエフ特別軍管区司令官に任命し、上級大将の階級を授与した。


同年12月、参謀本部において各軍管区司令官の会議が行われたが、ジューコフはドイツ軍のソ連攻撃が不可避であることを強調して、戦車・機械化部隊の編成の加速、空軍・防空部隊の強化を最重要課題として提起した。1941年1月、ジューコフは赤軍の参謀総長 / 副国防人民委員に任命された。


1943年7月のクルスクの戦いではニコライ・ヴァトゥーチンをヴォロネジ戦線司令官に任命し、ドイツ軍の攻勢を破り、1944年1月にはレニングラードの包囲を解除させた。


1944年2月に前線視察中のヴァトゥーチン大将が反共ゲリラの襲撃で死亡すると、代って第1ウクライナ戦線の指揮をとり、ドイツ軍南方軍集団をウクライナから駆逐する。


独ソ戦3年目の6月22日に開始されたソ連の大反攻作戦(バグラチオン作戦)ではヴァシレフスキー元帥とともに全般を統括してドイツ中央軍集団を崩壊させ、ベラルーシを奪回して国境線を回復したうえ、ポーランドに軍を進める。


1945年1月からのドイツ本土への侵攻では、みずから第1白ロシア戦線の指揮を執り、同年4月にベルリンを占領し、ドイツのカイテル元帥より降伏文書を受け取った。


戦争終結後はそのままソ連のドイツ占領軍の最高司令官となった。


大祖国戦争で最も昇進し、活躍した軍人として英雄視された。


1945年、モスクワの赤の広場での対独戦勝パレードにおいて、ジューコフは本来スターリンが行なうべきであった行進する将兵を馬上より閲兵する栄誉を与えられた。


スターリンは本来は自ら閲兵を行なうつもりだったが、リハーサルで馬から振り落とされ、ジューコフを呼んでこの役を譲ったのだという。


1945年6月26日、27日の会議で、ソ連軍の北海道上陸作戦の実施の是非が諮られたが、モロトフと共にジューコフは反対した。


なお、1945年8月22日の時点まで、北海道上陸作戦の準備はなされていた。


このようなジューコフの存在および人気は、スターリンの独裁政治にとって少なからぬ脅威となった。

そのため1947年、モスクワから遠く、傘下の部隊も少ないオデッサ軍管区、後にウラル軍管区の司令官に左遷された。


ジューコフ自身に逮捕の手が及ぶことは無かったが、直近の部下や親しい友人が身代わりとして犠牲になった。


しかし、スターリンの死後、再び政界に復帰し、1953年国防大臣代理に、1955年国防大臣に就任した。


1953年には国家政治保安部(秘密警察)長官であったラヴレンチー・ベリヤを逮捕、処刑するなどして、スターリン死後のソ連共産党の指導体制を支えた。

1988年 閑院宮春仁王(閑院純仁)[かんいんのみや・はるひとおう] (皇族[元]) <85歳>[1902年8月3日生]


閑院宮春仁王(かんいんのみや はるひとおう、1902年(明治35年)8月3日 - 1988年(昭和63年)6月18日)は、日本の皇族、陸軍軍人で、階級は大勲位陸軍少将に昇る。閑院宮載仁親王の第2王子。兄宮の篤仁王が生後すぐに薨去したため、実質長男として育ち、父載仁親王薨去にともない閑院宮を継承した。

なお、父の代まで親王であったため、誤って「閑院宮春仁親王」として言及されることがしばしばある。


戦後は皇籍を離脱し、姓を閑院とし閑院春仁と名乗った。のちに純仁(すみひと)と改名した。


1924年(大正13年)7月陸軍士官学校(36期)を卒業し、同年10月には陸軍騎兵少尉に任命、近衛騎兵連隊に配属される。


北支那方面軍参謀、陸軍大学校教官を経て1941年(昭和16年)4月新設の総力戦研究所の聴講生となる。1942年(昭和17年)戦車第5連隊長に補職。


将校の進級は実役停年(定められた年数を経て、実績を上げることで、次の階級に進む)という規定によって行われるので、一般将校は通例規定年数以上の年月をかけて進級していくが、皇族は規定年数通りの最小期間で進級する。


そのため、春仁王は1945年(昭和20年)6月に同期将校の中で歿後進級の例を除きただ一人普通進級で少将まで進んだ(歿後進級では陸軍大学校卒3名と非卒1名の例がある)。


同年8月には戦車第4師団の師団長心得。この師団は九十九里浜を重点に千葉県内に配備されており、3個連隊約6,000名の大所帯であった。


実際の指揮は隷下戦車連隊長の島田一雄大佐がとったとされるが、敵軍の上陸に備え九十九里浜・鹿島灘・相模灘等で準備中に終戦を迎える。


終戦にあたり、大詔渙発の聖旨並びに停戦大命の徹底を期し、天皇の名代として南方(サイゴン)に派遣される。


1945年(昭和20年)5月20日、父宮載仁親王の薨去に伴い閑院宮家を継承し、第七代閑院宮となる。

2002年 山本直純[やまもと・なおとも] (指揮者,作曲家『男はつらいよ』) <69歳>[1932年12月16日生]


映画「二百三高地」 (1980年)音楽監督・指揮もしていて、私の好きなサウンドラックの一つです。