知られざる戦史3 アッツ島の玉砕 その3 | 戦車兵のブログ

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知られざる戦史3 アッツ島の玉砕その2から続き


アッツ守備隊玉砕の報告は5月30日に昭和天皇に伝えられた。



昭和天皇は、上奏をした杉山元参謀総長へ「最後まで良くやった。こ

のことをアッツ島守備隊へ伝えよ」と命令した。杉山はすかさず「守備

隊は全員玉砕した為、打電しても受け手が居りません」と言った。

これに対して昭和天皇は「それでも良いから電波を出してやれ」と返答した、という。

こうして、無念にも散って逝った守備隊へ向けた昭和天皇の御言葉

が、決して届かないであろう事を承知した上でアッツ島へ向けて打電

された。



日本軍は1943年5月18日にはアッツ島放棄を事実上決めていたし、5

月23日には玉砕命令を出していた。


アッツ島守備隊し命令に逆らうことなく降伏せずに、最後まで戦い、万

歳突撃と集団自決。


さらに「玉砕」公布後の5月31日あるいは6月1日になってのアッツ島沖

の小島に逃げ延びた日本軍将兵の殲滅、,戦いの幕が下ろされた。


 アッツ島日本軍全滅の記録は、米軍の公開した戦闘記録を読まな

ければわからない。


アッツ島の玉砕は玉砕第一号とされた。



1943年5月23日大本営からアッツ島放棄の命令を受けた樋口季一郎

中将は、山崎保代大佐に玉砕命令を告げた。

「軍は海軍と万策を尽くして人員の救出に務むるも、地区隊長以下凡

百の手段を講じて、敵兵員の燼滅を図り、最後に至らば潔く玉砕し、

皇国軍人精神の精華を発揮あらんことを望む」





辰口信夫軍医が遺した日記が、後日、米軍によって発見されています。


5月29日、最後の日の記述を引用します。


『夜20時、地区隊本部前に集合あり。 


野戰病院も参加す。


最後の突撃を行ふこととなり、入院患者全員は自決せしめらる。


僅かに33年の生命にして、私はまさに死せんとす。



但し何等の遺憾なし。


天皇陛下萬歳。


聖旨を承りて、精神の平常なるは我が喜びとするところなり。


18時、総ての患者に手榴弾一個宛渡して、注意を与へる。


私の愛し、そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻妙子よ、さようなら。


どうかまた合う日まで幸福に暮らして下さい。 


美佐江様 やっと4歳になったばかりだが、すくすくと育ってくれ。


睦子様 貴女は今年2月生まれたばかりで父の顔も知らないで気の

毒です。



政様 お大事に。 


こーちゃん、すけちゃん、まさちゃん、みっちゃん、さようなら。』



日本軍のアッツ島の記録はこうした手記からその思いが残されている。



アッツ島守備隊の生存者は極めて少なく捕虜になったことを恥全員が

自決を試みたそうである。


アッツ島では玉砕後も米兵の同士討ちで戦死者が多数出ている。



山崎大佐がアッツ島守備隊長へ出征する前の任地新発田の聯隊で

奇妙な噂話が将校達の間で広まった。


深夜、聯隊の営門前に乗馬した将校が現れ捧げ刀の礼をして消えた

というのだ。


山崎大佐であったとう、この話はアッツ島の戦況が知られる前で新発

田の聯隊では「山崎さん戦死したらしい」と囁かれた。



アッツ島の隣キスカ島が奇跡の撤退を果たした、その時アッツ島付近

を通った時、アッツ島から万歳の声が聞こえたと多くの将兵が証言し

ている。


また、アッツ島慰霊碑にも奇跡の撤退はアッツ島将兵の御加護と書か

れている。