知られざる戦史3 アッツ島の玉砕 その2 | 戦車兵のブログ

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知られざる戦史3 アッツ島の玉砕 その1より続き



各地で日本軍はアメリカ軍の攻撃を防いでいたが、15日にはアメリカ

軍の砲爆撃によってアメリカ軍北部隊を押さえていた日本陣地が損害

を受け、16日アメリカ軍はこの機を逃さずに部隊を前進させた。北部

の日本軍は舌形台を放棄し、山崎司令官は戦線を熱田(Chichagof)に後退させた。

同じく南部の陣地も砲爆撃を受け、これにあわせてアメリカ軍は戦車5

両を突入させ一気に突破を図り、南部の日本軍は戦線縮小の命令を

受け後方の陣地に転進した。

18日からアメリカ軍は勢いに乗り縮小された日本軍の戦線に攻撃を

加えたが、日本軍の各陣地は、将軍山(Black Mountain)や獅子山

(Cold Mountain)の高地に拠って抵抗し寡兵を以てよくアメリカ軍の攻

撃を撃退した。

特に荒井峠(Jarmin Pass)の林中隊は一個小隊でアメリカ軍二個中隊

の攻撃を防いだ。

アメリカ軍の砲爆撃は正確で威力が高く、21日に南部の戦線も突破さ

れ、主力は北東のかた熱田へと追い詰められることとなった。

日本軍は大半の砲を失い食料はつきかけていた。

兵力は1,000名前後までに減り、各地の日本軍はアメリカ軍の攻撃に

対してなおも激しい抵抗を続け白兵戦となったが、28日までにほとん

どの兵力が失われ陣地は壊滅した。

翌29日、戦闘に耐えられない重傷者が自決し、山崎司令官は生存者

に熱田の本部前に集まるように命令した。


各将兵の労を労った後に「機密書類全部焼却、これにて無線機破壊

処分す」を東京の大本営へ宛てて最後に打電。

生き残った傷だらけの最後の日本兵300名は山崎保代司令官を陣頭

に最後の突撃を行う。

この意表を突いた突撃によってアメリカ軍は混乱に陥り、日本軍は大

沼谷地(Siddens Valley)を突き進み、次々とアメリカ軍陣地を突破す

る。

日本軍の進撃は止まらず、遂には第7師団本部付近にまで肉薄する事態となるが、雀ヶ丘(Engineer Hill)で猛反撃を受け全滅。

最後までアメリカ軍の降伏勧告を拒否して玉砕した。

なおこの突撃中、山崎司令官は終始、陣頭で指揮を執っていた事が両軍によって確認されている。

アッツ島の日本軍守備隊の大半は、まさかアッツ島が放棄され玉砕命令が出ているとは知らなかった。

それどころか日本軍の反撃が開始され(実際に5月22・23日に日本海軍機がアッツ島を爆撃した)、5月26日になって輸送船団が来航して増援部隊が救援に来るとの噂が流れた。

誰も突撃して戦死するか自決するかという選択を迫られるとは、最期の数日まで予期できなかったのである。

このことは,米軍が押収した日本軍将兵の「日記」から確認できる。

山崎部隊長は、玉砕命令を伝えることは部下にとって酷であり、部隊統率上士気にも悪影響を及ぼすと考え命令を部下全員には伝えなかったものと推測できる。

私物の日記は本来、情報漏れに繋がるのでつけるのを禁止されているが、情報管理の重要さを認識できなかった軍では黙認されていた。



1943年5月29日残存する1,000名の日本軍将兵は万歳を叫んでシカゴ

ウ湾からシッデンス渓谷に侵入し、米軍部隊に突進した。

翌朝、5月30日、日本の大本営はアッツ陥落を認め「玉砕として公表し

た。

日本軍の損害は戦死2,638名、捕虜は27名で生存率は1パーセントに

過ぎなかった。

アメリカ軍損害は戦死約600名、負傷約1,200名であった。

アッツ島の喪失によってよりアメリカ本土側に近いキスカ島守備隊は

取り残された形となったが、日本軍はキスカ島撤退作戦を実施し、木

村昌福少将率いる救援艦隊によって脱出・撤退に成功した。


   知られざる戦史3 アッツ島の玉砕その3へつづく