3月1日 早朝から全戦線に渡って日本軍の総攻撃が開始された。
しかし、塹壕を掘り、障害物を設けたロシア軍の陣地は堅固で、第2軍正面は攻撃が進まず、1日で4679名の損害(うち戦死1089)に及んだ。第4軍、第1軍ともに攻撃は進まず、快調だったのは第3軍のみであった。第3軍は1日に新民府、四方台を占領し、3日にはロシア軍の反撃を撃退し、4日には奉天まで10数Kmの地点まで進出した。
これに連携して第2軍の左翼も前進できたが3月6日まで第3軍を除く各軍は、押しつ押されつの状態で戦況に著しい進展はなかった。第3軍の前面の抵抗も強くなり、第3軍は更に北方に迂回してロシア軍の退路を断とうとした。
一方のロシア軍の3月5日の反撃は不発に終わった。シベリア第1軍団の集合が遅れ、また我が第2軍の第5、第8師団の攻撃で、右翼隊の一部を左翼正面に転用しなければならなかったからである。
しかし第3軍が奉天の頸部に突入しようとした3月7日 戦機は動き始めた。後方に不安を感じていたクロパトキン大将は、ロシア第1、第3軍を渾河の線まで撤退させ、新たな兵力を抽出することにした。
満州軍総司令部がロシア軍の後退を知ったのは、3月8日0120 第1軍司令部からの電報による。総司令官大山巌元帥は改めて全軍に対して追撃命令を達した。
第1軍は急進してロシア第1軍を奉天付近にあったロシア第2、第3軍から分断し、第2軍、第4軍は前面のロシア軍に対して猛攻を開始、第3軍は鉄嶺に至る鉄道、道路を遮断しようとした。ロシア軍は全軍の崩壊を避けるため、3月9日我が第3軍及び第5師団正面に対し猛烈な逆襲を実施、この正面の日本軍は一時苦境に立ち、後備第1旅団などの一部には壊滅する部隊もあった。
反撃部隊はムイロフ中将の指揮する歩兵29個大隊、火砲約100門で、昼間攻撃に続き夜襲によって日本軍を苦しめた。
3月9日1915、クロパトキンは鉄嶺に向かう退却命令を発令、10日夜に入り、会戦は日本軍の大勝をもって終わり、奉天は我が手中に落ちた。
日本軍 ロシア軍
参加総兵力 249800 309600
歩兵大隊 240 379.5
騎兵中隊 57.5 151.3
火砲 門 992 1219
機関銃 254 56
工兵中隊 43 43.5
戦死 16553 8705
戦傷 53475 51388
行方不明 7539
捕虜 404 21797
鹵獲 軍旗3
砲48
つづく