陸軍記念日 奉天会戦 1 | 戦車兵のブログ

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明治38年日露戦争で奉天会戦で勝利した日本陸軍。
この日を記念して戦前は3月10日を陸軍記念日としていた。

遼陽・沙河の両会戦と旅順攻略の5万余とあわせると、10万を超える将兵がこの1年で斃れていた。砲弾の欠乏に鍋や釜を潰して弾丸を作らねばならないほど貧弱な生産力しかない日本は、すでに募集した3億の外債も消費していた。参謀次長 長岡外史少将は、弾薬が補充されるまで2、3ヶ月の休戦もやむを得ない、と進言したほどだった。


これに対してロシアは、同程度の損害を蒙ったとはいえ新たに欧州から10数万の兵力をシベリア鉄道で送り込み、海軍は日本の主要艦艇に匹敵する規模の太平洋第二艦隊(いわゆるバルチック艦隊)を極東に派遣しつつあった。バルチック艦隊並びに奉天に集結する陸兵40万のある限り講和には応じられないと声明したロシアに対し、日本は否応なく陸海で決戦を挑まなければならなかった。

旅順を陥落させた第3軍は、明治38年1月下旬より北上を開始、鴨緑江軍も兵站の困難を克服しつつ満州軍の東に進出しつつあった。大本営では、来る満州での一大決戦に備えて3個師団の増設と弾薬、火砲の増産と外国からの購入など、兵備の拡張に努めるとともに、駐米公使 高平小五郎をして米国大統領に早期講和の斡旋にむけて検討し始めていた。

満州軍では例年よりも早い解氷期に先立って奉天付近のロシア軍に決戦を求めることに決した。韓国駐剳軍隷下の鴨緑江軍(司令官 川村景明大将)に敵の東翼を包囲してこの方面に牽制するよう要請し、第1(司令官 黒木為楨大将)、第4(司令官 野津道貫大将)、第2軍(司令官 奥 保鞏大将)を並列して北進、第3軍(司令官 乃木希典大将)は敵の西翼を包囲させることとした。

満州軍総司令官 大山巌大将は明治38年2月20日、この命令を下達するとともに、「本会戦は日露戦の関ヶ原である。この会戦の結果を全戦役の決勝とするよう努めよ」として、正面からの力攻を避け、側背攻撃と少ない損害で大打撃を与えるよう訓示した。

一方ロシア側では、第3軍の行動は注視しており、黒溝台の敗戦後も早期の攻勢が検討されたが、クロパトキンは迷った後2月21日日本軍の西翼を包囲する攻勢の開始を命じた。しかしこの攻勢は日本軍によって出端をくじかれ、攻勢の中核となるロシア第2軍は24日には攻勢を断念してしまった。


明治38年2月26日 鴨緑江軍は牽制行動のため坂城峪に、第1軍は高嶺子南方高地にそれぞれ進出、翌27日両軍はそれぞれ前面のロシア軍を攻撃したが、ロシア軍も徹底して抗戦し、いずれの正面もほとんど進展を見なかった。

第3軍は28日までに西翼に展開、第2軍と第4軍は、砲戦を行って企図の秘匿につとめた。ロシア第2軍は、日本軍の左翼に対して攻勢に出ようとしていたが、我が第3軍の動向を読み違え、攻勢を中止してしまう。28日になり、黒溝台方面からロシア軍を撃破しつつ清河城を占領、奉天西方に出現した日本軍に対し、果敢な行動から乃木第三軍であろうと判断、これを撃退するため予備隊を奉天付近に集結させた。

しかしそれは乃木第3軍でなく、川村景明大将率いる鴨緑江軍(第11師団、後備第1師団、後備第16旅団 他)であった。ロシア軍は日本軍主力が奉天の東方から進出してくるものと想定していたのである。

つづく