日本国の教育雑感 | 夜は乱高下(こんな学習塾に通わせたい!)

夜は乱高下(こんな学習塾に通わせたい!)

世の中に学習塾は数多けれど、これ!といったのが少なくて…
教育界に長年いるこの私が、これ!といった学習塾を、あなたにご紹介いたしましょう。「夜は乱高下」と共に…。

小中学生の書く詩や作文が質的に劣化させられているのではないか?

そう感じるようになつて何年も経つ。
「見たまま、感じたままを書けばいいのよ」と言われてできあがるものは、ただの雑文。句読点ごとに改行すればそれで詩ができ上がり。
余りにも安直。比喩もなければ韻を踏むこともない。それは少なくとも詩ではない。


言葉を詩にするためには見たままではなく、風景を感じる心とそれを表現する想像力、技法がなければならない。
それは古典に親しみ、学習の蓄積がないと発揮されることはない。先生による解説も理解を助けるのだが、学ぶの語源は真似るということ。
自紙の状態では何を見ても詩を作ることはできない。詩を作る前に、傑作を読ませることである。優れた詩なら、直ぐに暗記してしまうだろう。
そういう経験、学習の積み重ねを土台にして初めて詩作が可能となるのではないか。

一般化して言うと、まずは基本的な知識の詰め込みありき

勉強とは先人の蓄積してきたものを受け継ぐこと、そこを出発点として学問は発展する。個人の成長もまた、人類の歴史を取り込むことなくしてはありえない。

言い換えれば、詰め込み無くして考える力も生きる力も生まれようがない。コミュニケーション能力も然り。
太平洋戦争時に学徒動員された兵士が残した手紙や日記を見ると、その卓越した表現力に驚かされる。今の「こんにちは」から始まる手紙やメールの文章の幼稚さとは比較にならない。
形成されている土台の違いを痛感するところだ。詰め込みの根本的な重要さについてまずは確認したい。
ただ、批判の的となつているのは歪んだ詰め込み教育であつて、知識の習得(詰め込み)が批判の標的ではない。
詰め込む目的と中身がおかしい。目的は記憶カテストでの高得点のみ、中身は表面的なこと。


歴史で言えば年号とか名前などの断片が中心。テストが終われば記憶は飛んでしまい頭の中には空自しか残らない。
それが日本の教育、勉強の悲しくも佗しい現状なのだ。小中高、そして大学で教育を受けても、英語はできず社会的にも無関心、何の教養も身に着けてはいない若者が輩出される。頭の中は損か得かという価値基準に支配されているだけ。社会や企業もその点を気にしてはいない。そんな状況が長く続いて、もう慣れてしまっている。歪んだ詰め込み教育の成れの果てである。


今、日本は経済的にも社会的にも没落の道を転げ落ちている。経済的豊かさを失い、社会も昔ながらの伝統にしがみついている。
劣化する日本は、世界からひとり置いていかれる状況が変わつていかない。

どこから変えていくべきか、それは教育からだ。
ゆとり教育とは、週休二日動務を導入するなど先生方のゆとりから始まったのだが、現状はひつ迫した忙しさに負けている。生徒はどうかというと居場所を奪われるどころか学校を忌避するケースが増え、さらに子どもたちの歴史に初登場した子ども食堂や学童保育などというところに世話になる。一体、どういういきさつでこうなったのか。

そんな危機意識から、日ごろ感じている問題の一端を述べてみた。