赤と黒の時代背景メモ① | ここは東京のまんなか

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フランス革命について(赤と黒の時代背景メモ①)

フランス革命が始まる18世紀末、フランスではイギリスとの長期にわたる植民地戦争に敗れ、財政状態はガタガタになっていました。凶作下でも農民の負担が軽くわけではなく、農民の不満は高まっていました。時のフランス国王ルイ16世は財政再建のために、聖職者、貴族といった特権階級からも課税するために、三部会を召集ました。三部会は、聖職者、貴族、平民の代表者が集まる会議で、1615年以来開かれていませんでした。平民代表はこれまで大変大きな税負担を強いられてきましたので、聖職者や貴族といった特権階級とは対立が深まりました。しかし、旧制度に批判的だった一部聖職者と貴族代表は平民とともに6月、国民議会を発足させました。7月、国王ルイ16世もこの議会を承認し、政治変革は一段落したかに見えました。

しかし、社会不安を解消することはできず、1791年以来反革命勢力はしだいに増大しつつあった。亡命貴族(ユミグレ)たちは、革命の波及を恐れるオーストリアなどの援助のもとに、コブレンツやマインツなどに集結して革命の打倒を画策し、聖職者たちは国内各地で反革命を扇動していた。

これまで積ってきた都市市民の不満が7月14日、バスティーユ牢獄への襲撃という事件を引き起こします。ちなみにその日、ルイ16世の日記にはただ一言、「何事もなし」と記されていたとされます。この時、ルイ16世は、事態の大きさを全く理解していませんでした。

大恐怖」と呼ばれる農民蜂起が起こったのはそれから間もなくでした。それはフランス全土に広まり、国民議会は中世以来の身分制度を廃止し、封建的特権を廃止することを決議します。8月26日にはラ・ファイエットが提唱した『フランスにおける人間および市民の権利に関する宣言(フランス人権宣言)』が決議されました。

1791年8月、フランス革命の波及を恐れたプロイセン、オーストリアはピルニッツ宣言を出してフランス革命に介入する用意があることを宣言。これに対して92年3月に成立したジロンド派政権は4月オーストリアに宣戦布告。革命戦争がはじまりました。戦局はオーストリア・プロイセンの連合軍が有意に進めます。これに対し、ジロンド派の政敵のロペスピエール率いるジャコバン派は義勇軍の結成を訴え、フランス全土に呼びかけます。こうしてフランスを救うために集結した義勇軍は、92年9月20日ヴァルミーの戦いでフランス領内に侵入していたプロイセン軍を撃退しました。この時、プロイセン軍に従軍したゲーテは、「この日、ここから世界史の新しい時代が始まる」と書き残しました。その翌日、普通選挙がおこなわれ、フランスは共和政に移行しました(第一共和政)。

1793年1月のルイ16世の処刑によりヨーロッパ中が実感することとなりました。イギリス、プロイセン、オーストリア、ロシアなどの列強は対仏同盟を組みフランスに圧力をかけます。このころ、フランスの政局はどちらかといえば穏健派でルイ16世の処刑にも反対していたジロンド派はその力を失い、強硬派でルイ16世の処刑なしに革命は終わらないと主張するジャコバン派が勢力を握っていました。93年6月にジャコバン派が政権を握るとジロンド派を追放し、恐怖政治が始まります。食料の強制徴収、革命精神の鼓舞、カトリックの抑圧、理性崇拝などが推進され、反対する者は容赦なくギロチンの断頭台に送られました。かつての王妃マリー・アントワネットやロラン夫人など35,000人もの人たちがギロチンによって首を落とされました。

1794年7月に恐怖政治は突然終わりを迎えます。テルミドールの反動と呼ばれるクーデターによって国民公会のジャコバン派は全員逮捕されました。恐怖政治を推進していたロペスピエールもギロチン台に送られました。これによって、フランス革命は、ひとまずの区切りがつきます。そのあとの樹立された総裁政府は権力の基盤として軍部への依存を強めていきます。1795年の王政復古を目指すヴァンデミールの反乱の鎮圧に活躍したのが当時26歳のナポレオン・ボナパルトでした。イタリア遠征、エジプト遠征でさらに名を挙げたナポレオンは、99年にクーデターでフランスを掌握すると、1804年に皇帝に就任します。フランスの第一共和政は終わりを迎えました。


出典
http://turning-point.info/kakumei.html