このお題ですと、節分系の内容か、みたいに思う人が…いるのかな。
令和5年の大晦日のお題としては、1年の振り返り等か来年の抱負系が多いと思います。
ですがここは私のブログ。
そういった時節柄の記事ではなく、自戒を込めた内容でいきます。
内と外とは何かといいますと、それは言葉遣い。
すなわち、家族、友人間の言葉遣いと他所様(よそさま、という言葉は一部では死語かも)と話すときの言葉遣いは当然異なるものです。
いや、もはや「でした」かもしれません。
例えば卑近な例ですと、ブログなどで家族のことを書く際、「おとうさん」とか「おねえちゃん」、自身の一人称を「僕」とか、かなり後頭部を強打する単語を使用する例が多罰しています。
これにはネットに対する親和性とも関係があるし、昨日も書きました世代を跨る交流があまり無いなどの要因が原因であると常々感じています。
ですが、そもそも論として言葉遣いに内向きと外向きがあるのはなぜ?という極めて単純な疑問がないまま話す、使っているように思えるので、根深い問題なのかも、とも思います。
この辺りは、たしか先行研究で斜め読みした記憶もあるのですが、不確かです。
ただ、日本語として使う場合に、子供ならいざ知らず大人がこうした使い分けができないと、場合によってはかなり痛い評価をこっそりともらうことになります。
あの子は言葉遣いを知らない、と上の世代から評価されるのは結果としてリスクではないのでしょうか。
結婚した後、夫の実家(義実家ってなに?)で義父や義母からどのように思われても、行かないから平気です、になるのならばそれでも良いのでしょうが、ごく普通の人ならよほどのことがない限り、付かず離れずなお付き合いをするわけですから、多少なりともちゃんとしませんか?となります。
これは夫の実家が普通の場合であって、義父や義母の何れか、或いは両方揃ってユニークな方だとそうはなりませんね。
そついえはば、義実家ってネットフランクだ!とある場面で突っ込まれていた女性が苦し紛れに書いてきましたが、そんなこと無いから。(笑)
電車内、飲食店会などで耳にすることがありますからね。
義理の実家→義実家って、典型的なゆとり短縮ワードですから。
頭が硬い、融通が利かない、頑固、認知力の低下など、反論の際の悪口は概ねこんなもので、昔から若年者が大人、初老、本老(本格的な老人)に対して使うのと差異はありません。
ある面では的確に事実を捉えていますが、殆どの場合脊髄反射的なものと言えます。
普遍的、ですね。
社会人が社内向けの言葉と社外向けの言葉を使いこなせないというのは、最悪会社の評価を下げることに繋がります。
あの会社は、新入社員に言葉遣いすら教育できない会社なのか、と。
入社間もない新人が、おっかなびっくり電話しているなら多くの場合社外の人も笑って済ませることが多いですが、入社後数年しても言葉遣いがきちんとしていないと、その人との会社と、マイナス評価を食らうことがあります。
会社内外、仕事と個人、家族、友人と他人。
言葉の使い分けをしているはずです。
許容範囲もケース・バイ・ケースですから、ゆとり脳を持つ人に対して定量的に示すのは困難。
定性的に示すことは可能ですが、そうすると理解出来ない者が現れます。
「今」は使い分けですが、ゆとり脳を持つ人達が社会で多数を占めたとき、ようやく使い分けなんか不要という意見、考えが常識になるかもしれません。
年数的には、あと25〜30年先でしょうか。
会社勤めまでが社会を構成する人々ではありません。
年金世代の方が、これからも多数派です。
つまり、その年齢に達するまでの年数が上記の通りというわけです。
躾とは見たとおり身を美しくするもの。
まったくないのは論外。
ある程度の厳しさは必要です。
大人であれば、自分で考えて行動できます。
躾が不十分な人でも、考え方一つで変わることが出来ますが、言うのは簡単。
価値観を変える必要があったりしますからね。
柔軟性が必要です。
過ちを認める素直さが必要。
我慢もしなければならないでしょう。
日々反省だらけの自分の場合、当てはまることがいくつもあります。
日々、反省です。
ところで、これが鮪だ〜!
築地で買い求めた、一品。(妻の目利き)
身厚に切ってくれたおかげなのか、とても美味でした。
(美味しかったです→この表現、私の中では避けたい言い回し)
退職金と若年退職給付金のことを詳らかにする、と書いていましたが、年内の掲載は微妙な状況になってしまいました。
今年の年末は↑のようにちょっとした幸運に恵まれます。(予定)
…という妄想を抱きつつ、あと半日を過ごします。
今年、このブログを御覧いただきました方々に御礼申し上げます。
新しい年が皆様にとりまして良い年となりますよう祈念申し上げます。
とうぞ、良いお年を。
令和5年 大晦日
以上