美輪明宏の説
供養というと、こういうエピソードがあります。
最近の話ですが、私のスタッフの一人で、長いこと照明をやってくれている人がいます。ある時打ち合わせをしていたら、どうも元気がないし覇気がない、ひらめかないのです。
「あなた、元気なさそうな顔してどうしたの?」と言うと、
「仕事を受けられないんじゃないかと思っているんです……この半年、頭痛がひどくて、首が動かないんです。首を横へやるのも辛くてハンパじゃないんです」と言います。
首が曲げられないようじゃしょうがないじゃないというわけで、私が右の掌で耳の後ろから首筋をなでてあげながら心の中で「南無妙法蓮華経……」とお題目を唱えていると、中年から老年にかけての男性の声で、
「先生、聞いてください。こいつは長男のくせに墓参りにも来たことがないんです。線香一本上げにこないんですよ。そんなことってありますか?長男の役目をちゃんと果たせとこいつに言ってやってください」と聞こえました。
とても気が短い方で、世間様が何と言うかとか、世間体が悪いとかいうことをとても気にされる方のようでした。首筋の手当てが終わってから、
「あなた、長男なんですって?」と言うと、そうだと言います。
「長男のくせに墓参りにも全然行ったことがないんですって?あなたのお父さんがそう言っていたわよ」そう言うとビックリしていました。
「すごく頑固で、世間体とかそういうものを気にする人なのね」
「そうなんです」
「本当にあなた、お墓参りに行ったことがないの?」
「ええ、ありません」
そりゃあ頭だって痛くなる、お墓に参っていらっしゃいと言いました。墓参りに行って、それまで位牌に水も自分であげなかったのが、ちゃんとやるようになった。そうしたら、半年患っていたのにピタッと治ってしまったのです。
(中略)
私が「墓参りは大事ですよ」と言っているのはそういうことなのです。先祖は苦しめようとしているわけではなく、知らせる方法が他にないのです。だから初めは良い現象を起こしてやって知らせようとします。しかし、人間というのは浅はかなものですから、良い現象で知らされても、自分の力だと思うものですし、変だとは思いません。「良い現象が起きすぎて変なんですよ」と相談に行く人はいません。「じゃあしようがない、最後の手段だ」ということで苦しめるわけです。苦しめたら、「おかしい」と思っていろんなところへ相談に行ったりする。神様や霊はそうやってちゃんといろんなことを教えてくれるのです。
メシアの論証
この話が本当かどうかは置いておくとして、美輪明宏は墓参りの重要性というものを説いている。しかし、彼が本物の霊能者と太鼓判を押すあの江原啓之は、実はこのようなことをいっているのである。
供養とは「形」ではありません。お墓参りをすること、命日やお盆にお供えをすること、それらはすべて「形」です。
霊的視点では常に、「思い」を重視します。
どういう気持ちでお墓参りをしているのか。どういう心でお供えをしているのか。それが大切なのです。お墓参りは月に何回するとか、お供えは何円以上でなどという「形」は、どうでもいいことです。
供養の本質とは、亡くなった人のことを思うこと。
その人のことを忘れない、ということです。
思う気持ちさえあれば、どこにいても供養はできます。たとえお墓参りに行けなくても、通勤の電車の中ででも供養はできるのです。
逆に、「お墓参りに行けば、いいことがある」とか「立派なお墓を建てて豪華な供物をすれば、家が繁栄する」などという考え方では、いくらせっせとお墓参りをし、お供えをしても、本当の供養にはなりません。
……江原啓之の説と美輪明宏の説はまったくの正反対であることがわかると思う。つまり美輪明宏は自分とは正反対の考えの持ち主のことを『本物の霊能者だ』と持ち上げているということなのである。この目を覆いたくなるほどの矛盾に美輪明宏自身は気づいているのだろうか?
ボロというのは単純なところからすぐ出るものである。