先日、ヤクルト・スワローズの不動のセットアッパー、クローザーとして活躍した石井弘寿が引退を表明した。
石井弘寿といえばかつて五十嵐亮太と150㌔コンビとして“ロケットボーイズ”と呼ばれ 彼らと守護神・高津によるリリーフトリオは12球団屈指の鉄壁を誇った。
そんな石井弘寿のプレイの中で私が最も印象に残っているのが、2002年におこなわれた日米戦でのものだった。
その年の日米戦はシーズン73ホーマーを記録したバリー・ボンズの話題で一色であり、バリー・ボンズは日米戦の前におこわれた巨人との試合からホームランを連発していた。
そしてむかえた日米戦の数試合目のこと。たしかイニングは4回か5回くらいだったと記憶している。オールジャパンが満塁のピンチに陥り、むかえるバッターは絶好調をキープし続けている恐怖のバリー・ボンズ。
そこでオールジャパンの原監督はベンチを立ち、ピッチャーの交代を告げて新しいピッチャーをマウンドに送った。それが石井弘寿だったのである。
Aクラスチームの不動のセットアッパーを中盤のワンポイントリリーフに使うとは、さすがオールジャパン、なんとも贅沢な投手起用である━━そんなことを思いながらテレビ画面を凝視し、バリー・ボンズと石井弘寿の対決を息をこらして見守ることにした。
……そのときのカウントは覚えていない。しかし、石井弘寿が投げた球種とコースははっきり覚えている。
球種は140㌔代のストレートで、コースは内角低めだ。石井弘寿の代名詞である150㌔の剛速球ではなかったものの、素人の目から見ても非常に厳しいコースに投げられたボールであることがわかる秀逸なストレートだった。
それをバリー・ボンズは、ポンと軽くバットを振ってたんたんとスタンドに運んだのである……。
これが私の石井弘寿最大の思い出だ。石井弘寿がバッターを華麗に打ち取るシーンではないが、石井弘寿といえばどうしてもこのバリー・ボンズの満塁ホームランを想起してしまうのである。
しかし打たれた石井弘寿も、相手がバリー・ボンズならばむしろ誇りに思えるシーンなことだろう。
余談だが、この年の日米戦ではバリー・ボンズと松井“ゴジラ”秀喜によってホームラン競争がおこなわれた。それを東京ドーム内で実況したのが、のちにセクハラで日テレを退社することになる船越アナだったと記憶している。
