今日は、広島原子爆弾投下の日ですねねそれで、この記事を乗せます
HBC北海道放送 TBS系 広島ではRCC中国放送
ニュースサイトに乗っている記事ですが
母が寝坊していなければ皆さんと僕の出会いはありません」
被爆2世の小学校教諭が「お好み焼き」を通じて伝えたいこと
2023.05.06 07:51
テレビ放送があったのは8月4日18:35頃
今日ドキッ! 北海道のニュース
動画
「母が寝坊していなければ皆さんと僕の出会いはありません」被爆2世の小学校教諭が「お好み焼き」を通じて伝えたいこと #戦争の記憶#北海道放送 #hbcnews | @HBCnewsJNN | @HBChokkaidohttps://t.co/n5pQSC1QtE
— HBC news (@HBCnewsJNN) August 5, 2023
広島に原爆が投下されて、6日で78年になります。
多くの人が戦争を知らない時代になる中、
記憶の継承に取り組む被爆2世の小学校教諭がたどり着いたのが
「お好み焼き」でした。
千歳市立支笏湖小学校です。
夏休み前、最後の登校日、教室に用意された大きな鉄板。
3年生から6年生の児童6人が集まりました。
視線の先にあるのは、広島名物の「お好み焼き」です。
子どもたちに、ふるまっているのは、
広島出身の渓口 正裕(たにぐち まさひろ)教諭です。
夏休みを前に、渓口さんが子どもたちにお好み焼きを食
べさせたい理由、それは、どうしても語り継ぎたい記憶があるからです。
渓口正裕さん
「(原爆投下の日)うちの母は寝坊しました。
僕の母が寝坊していなければ皆さんと僕の出会いはありません」
渓口正裕さん
渓口さんは、戦後生まれの54歳、被爆体験のある母を持つ、
いわゆる「被爆2世」です。
広島、長崎に原爆が投下されてからまもなく78年。
かつて「2,000人」と言われた道内の被爆者。
今年の3月時点で、およそ200人と、
原爆の記憶を直接語ることができる人は、年々、少なくなっています。
大学進学をきっかけに北海道にやってきた渓口さん。
92歳の母・雅子さんです。
12年前、北海道に移住し、
北広島市内の特別養護老人ホームで暮しています。
今も消えない78年前、あの日の記憶。
渓口雅子さん
「(原爆投下で)家はもう全然ないです。灰の町。
焼け残った町がね、たまには(建物が)残っていましたけどね、
その中は死体ばっかり。生きた人はいなかったです」
1945(昭和20)年8月6日午前8時15分。
当時14歳、安芸高等女学校の2年生だった雅子さんは、
うっかり寝坊をしたため、爆心地の近くで予定されていた
建物疎開に参加できず、3キロ離れた自宅の縁側で弟と妹と3人で涼んでいました。
渓口雅子さん
「私が記憶にあるのはね、原爆の爆弾が落ちたときの、
ぴかっという光、あの光はちょっと見たことない」
現在92歳の雅子さん。
10年ほど前までは、
北広島市の公民館などで自身の被爆体験を話したり、
広島の原爆資料館に被爆体験の証言を寄せたりと
原爆の記憶を語り継ぐ活動を続けてきました。
渓口正裕さん
「(母親が)平和公園を訪れて、
祖母がまだ亡くなったという確認が取れてないんです。
遺体すら見つかっていなくて。
原爆死没者名簿というところに行って、そしていつも母が、
『(祖母の名前が)ないね…』って
一言こぼしていく背中を見ていたから、それがやっぱり自分の中で残っている」
教師として、そして被爆2世として、渓口さんは、32年前、
教師になってから毎年、夏休み前に、
子どもたちに広島についての授業を行っています。
子どもたちは、祖父母や両親から戦争中の体験を聞いたことが、ほとんどありません。
渓口正裕さん
「原子爆弾と言わないで、核兵器と言っているんですけど、
なぜか分かりますか。原子爆弾じゃ威力が小さいんです。
それ(核兵器)が今いくつあるかというと、
12,700発。それが今、君たちが暮らしているこの星の上にあります」
広島で起きたことを自分事として感じてもらおうと、
渓口さんは広島の「暮らし」に注目しました。
渓口正裕さん
「(被爆)2世でなければできない伝え方はないかなと思って。
(リニューアル後の)資料館は、
そこにあった生活・暮らしというものに目を置いて、
物語を語るような形にプレゼン(提案・発表)しているような気がしたんですよ」
その答えがお好み焼きだったのです。
お好み焼きは、被爆後の食糧難、
アメリカ軍の配給が多かった小麦粉に
海産物や安かったキャベツをのせて、重ね焼きしたのが始まり。
腹持ちをよくするために焼きそばを加え、
戦後の復興とともに、今の形になりました。
授業をする渓口さん
「生きていくためにお好み焼きを焼いていたときに、
何が貴重だったかというと、水なんです。
洗い物を少なくするために、へらを使って食べた。
だからこれ(ヘラ)はね、
お互いが支え合い、助け合い、思いやりを持った印なんです」
子どもたちにとって身近な「食」を通じて、78年前、
広島で起きた出来事に思いを馳せてもらう。
6年生 関口昊太(こうた)さん
「原子爆弾より大きな爆弾とか強い爆弾が
いっぱいあるのは、ちょっと…と思った」
6年生 板谷萌音(もね)さん
「(広島で)どんなことがあったのか、
どれだけつらい思いをしたのかっていうのが分かってすごく怖くなった」
渓口正裕さん
「広島もそこには今の僕らとなんら変わらない生活があった。
ウクライナの戦争も、何年か前は普通の生活がそこにあった。
子どもたちにも、そこをいかに人ごととか過去にあったことの昔話ではなく、
今の自分たちの身になって考えてもらえればなと」
渓口さんは、子どもたちに、「いざという時」は、大人の判断を待たずに、
自分で考えて行動できる人になって欲しいと考えています。
広島の出来事を、自分事として考えることで、
もしも、戦争やミサイルの危険にさらされた場合、どのように身の安全を守るのか、
自分で判断して行動できるようになってほしいという思いが込められています。
渓口さんの「広島の授業」を何度も受けている支笏湖小の6年生は、
夏休みに、広島の原爆資料館に足を運んだり、
インターネットで調べたりと、既に行動を始めているそうです。
この記事を読んでの感想は、この後乗せます