まず、産経新聞に乗っている記事ですが

 

奥山コーシン氏死去 放送作家

2023.06.26 12:09 産経新聞

奥山コーシン氏

(おくやま・こーしん=放送作家、本名・戸波侊伸=となみ・てるのぶ)

5月24日、低酸素脳症のため死去、84歳。

北海道旭川市出身。

葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は妻、トシ子(としこ)さん。

 

 

タレントの前田武彦氏や青島幸男氏のアシスタントを経て、奥山侊伸名義で放送作家に。

「シャボン玉ホリデー」「8時だヨ!全員集合」などの人気テレビ番組に関わった他、

作詞家や落語家、ラジオパーソナリティーとしても活動した。

 

 

続いて、夕刊フジに乗っている記事ですが

 

テレビ草創期を支えてきた放送作家・奥山コーシンさん、

低酸素脳症で死去 84歳 昭和偉人の心温まるエピソードは数知れず

2023.06.27 15:30

 

放送作家として、テレビ草創期から活躍してきた

奥山コーシンさんが5月24日、低酸素脳症のため84歳で死去した。

昭和のテレビを支えてきた巨星が旅立つたび、

その人となりを浮かび上がらせる楽しいエピソードを語ってくれた方だった。

 

奥山さんは5月に入って入院し、

そのまま意識を取り戻すことなく旅だったという。

 

ジャズ喫茶のウエイターなどを経験した後、タレントの前田武彦さんや

青島幸男さんのアシスタントを経て、放送作家としてデビュー。

「シャボン玉ホリデー」や「8時だヨ!全員集合」などの人気番組にかかわり、

「ザ・ベストテン」「世界まるごとHOWマッチ」といった番組で

企画段階から参加していた。

 

そのほかにも、作詞家や落語家、

ラジオパーソナリティーとしても活躍していたが、

そんな経歴では収まらないほど、幅広い交友関係も含めて、

その半生はまさに日本のテレビ史といっても過言ではないだろう。

 

本紙でも、昭和のテレビ界に名を残すような

タレントが鬼籍に入るたび、よく取材に応じてもらった。

 

 

永六輔さんや朝丘雪路さん、藤村俊二さん、宍戸錠さん…。

あまりにもそんな取材が重なったため、

電話をすると「また誰か亡くなったの?」とけげんそうな声が。

「申し訳ありませんが、その通りなんです」なんてやりとりに、

「残念だねえ」と言いながらも、

快くすてきなエピソードを教えてもらったものだ。

 

奥山さんの語るエピソードの特徴は、放送作家という職業柄か、

生き生きとしたカギカッコが多かったことだ。

その人との会話をリアルに再現しながら、懐かしそうに思い出を話してくれるので、

まさに人となりが目の前に浮かび上がってきた。

そして、そこには温かい目線がいつもあったのも印象的だ。

 

もう、テレビ草創期の貴重な記憶を語ることのできる人が

ずいぶんと少なくなった。

テレビ離れが叫ばれている今だからこそ、

もっと話を聞いておけばよかったと残念でならない。 

(福田哲士)

 

以下、ウィキペディアに乗っている記事ですが

 

奥山 コーシン(おくやま コーシン、

本名:戸波 侊伸(となみ てるのぶ)、

1938(昭和13)年11月18日生まれ

日本のラジオパーソナリティー、放送作家、作詞家。

社団法人日本放送作家協会理事。

放送作家としての名は奥山侊伸(おくやま てるのぶ)。

通称は『おくちゃん』。北海道旭川市出身。北海道旭川東高等学校卒業。

 

人物

1958年 上京。三鷹市にあった親類の酒店勤務を皮切りに、

ジャズ喫茶店のボーイを経験。ジャズバンドのマネージャであった

前田武彦の知遇を得る。後に前田や青島幸男のアシスタントを経て、放送作家となる。

1973年 作家集団ペンタゴンを経て、

大橋巨泉事務所(現・オーケープロダクション)に放送作家として所属。

1984年 放送作家集団DNP設立。代表に就任。

1996年 落語立川流Bコース(芸能人・著名人コース)に入門、

2000年5月、高座名「立川侊志ん」襲名。

 

青島が以前スタジオパークからこんにちはに出演した際に

秋元康君は私の一門の奥山の弟子」と話した事がある。

また歌謡ポップスチャンネルで放送された藤井隆の

胸キュン!アイドル天国にゲスト出演したときにも同様のことを

藤井隆からエピソードとして紹介された。

2012年 6月11日~20日、

新宿末廣亭中席夜の部に「立川侊志ん」として出演(トリ・桂竹丸)。

初日は代演として永六輔が登場した。

2023年 5月24日、低酸素脳症のため東京都内の病院で死去。84歳没

 

そして、秋元康 さんの記事には

 

高校2年の冬、ニッポン放送

『せんだみつおの足かけ二日大進撃!』を聴いていた際に何気なく、

せんだみつおを主人公とした『平家物語』のパロディを、

受験勉強のために用意したノート20枚にわたり書き上げ。

募集されていたわけではなかったが、

同級生の薦めもあってノートをニッポン放送へ送ったところ、

ニッポン放送制作部副部長だった亀渕昭信(のちに社長)と、

大橋巨泉事務所の放送作家グループに所属していた

奥山侊伸の目に留まり、ニッポン放送へ遊びに来るように言われ、

出入りするうち奥山の弟子となり、大橋巨泉事務所に所属した。

 

中央大学文学部に進学後、放送作家の活動を始めた。

当初は放送作家をアルバイトと考えていたが、

放送作家業によって当時のサラリーマンの

4倍近い収入を得ていた。

しかし、本人はそれを「あぶく銭」だとしていた。

「思えば、道草から始まった人生」と自身は回想している。

 

北海道では

STV 札幌テレビ放送(日本テレビ系)の夕方の

どさんこワイドのレポーターを一時期やっていたのと

毎週日曜日の午後から放送していました

奥山コーシンの日曜いっぱい生ワイドの

パーソナリティとして活躍されました。

 

あと、上にも書いた通り、秋元康先生が、『平家物語』のパロディを書いて

ニッポン放送に送ったら、奥山侊伸さんの目に留まり、

ニッポン放送へ遊びに来るように言われ、出入りするうち奥山の弟子となったわけて、

ここで取りあけられなかったら、今の地位には、なっていなかったと思いますね

 

 

心より、

ご冥福をお祈り申し上げます。