どちらも長崎新聞に乗っている記事ですが

 

憧れ、苦楽重ね…特急かもめとともに“引退” 

JR九州車掌 秀島暢一さん(65)最後の乗務

2022.09.22 長崎新聞

 

特急かもめの最後の乗務で、

車内に忘れ物がないか確認する秀島さん=長崎市尾上町、JR長崎駅

 

 

 

 JR九州の秀島暢一さん(65)=長崎市=は国鉄職員時代から四十数年、

博多~長崎を走る特急かもめの車掌を務めてきた。

西九州新幹線開業に伴い特急が廃止されるため退職を決意。

廃止前日の21日、最後の乗務を終えた。

特急かもめ 885系電車
 憧れたかもめの車掌になったのは1970年代後半、23歳頃だった。

休日に先輩の車内放送をカセットテープに録音するなどして接客の腕を磨き、

100人以上いた長崎車掌区で最も若かったので「かわいがってもらった」。

国鉄最後の「ヨンパーゴ(485)系」車両は重量がある分、

スピードは出ないが揺れが少なく、空調のボタンを乗客が押せる車両もあった。

 87年の分割民営化で職場の空気はがらりと変わった。

例えばキセル(不正乗車)への対応。

以前は「ガツンと言っていた」のが、顧客サービス重視のJRになると、言葉遣いがソフトに。

平成に入ってすぐ、長崎初登場のハイパーサルーン(783系)の1番列車に乗務。

当初は9両編成と長い上、通路のドアが多く車内の移動に時間がかかった。

近未来的なデザインで注目されたのとは裏腹に「車掌泣かせ」だった。

 来県した秋篠宮ご夫妻が乗車された折は、

こわもての護衛官を説得し「失礼のないよう」に貸し切りの車内に入って室温確認。

下車する紀子さまから「車掌さん、おつかれさまでした」と声をかけていただいた。

 2003年、諫早市内であった落石による脱線横転事故はニュースで知った。

33人が負傷。奇跡的に死者を出さなかったとはいえ、

「人命の重み、救助の重要性を感じた」という。

 

大雪で途中動かなくなり、長崎から博多に着くまで、約14時間かかったこともあった。

 17年前のこと。列車事故で確認のため車外に出た際、足を滑らせ側溝に転落。

必死によじ登って車内放送や会社連絡を済ませた後、気を失った。

肋骨(ろっこつ)8本が折れ、肺を突き破っていた。

医師からは無理と言われたが7カ月後に復帰。

以来、コルセットを着け、痛み止めを飲み続けている。

 そこまで仕事にこだわったのは鉄道が好きだから。

お年玉できっぷを買い、働くようになってからも休日は列車旅行。

かつて特急かもめが京都~長崎を走っていた頃のキハ80系車両には、父が乗せてくれた。

食堂車もあり「こんな高級な汽車があるのか」と小学生の心に深く刻まれた。

旅程は忘れたが、発着時刻は今でも覚えている。

 定年後も嘱託として6年勤務。

長崎での在来線特急車掌の業務がなくなるのを機に

「ずっと心配をかけた妻にそろそろ孝行しようか」と考え、

かもめと一緒に引退することにした。

 21日、自身にとっての“最終列車”を降りた秀島さんは笑顔だった。

「これからは利用者として『かもめ』と長く付き合っていきたい」

 

“1番列車で地元を走る” 西九州新幹線 

諫早出身の運転士・西尾麻衣子さん(31) 資格取得、夢かなえる

2022.09.19 長崎新聞

「女性が運転士を目指すきっかけになるとうれしい」と

西九州新幹線かもめの前で話す西尾さん=長崎市尾上町、JR長崎駅

 

 

 新幹線を運転し、地元を走る-。23日に開業する

西九州新幹線(武雄温泉~長崎)の運転士約20人の中で唯一の女性、

西尾麻衣子さん(31)=長崎県諫早市出身=は、その夢をかなえる。

しかも、開業初日に長崎駅を始発で発車する「1番列車」を任された。

 2013年にJR九州に入社。

初任地の博多駅で駅員として勤務し、男性と同じ制服(当時)で、働く女性乗務員に憧れた。

車掌の資格を取り、列車に乗務すると、今度は女性運転士が輝いて見えた。

 16年に在来線運転士の資格を取得。

普通列車に加え、特急かもめ、みどりで県内も走った。

地元の諫早を含む長崎線はカーブが多く、運転が難しいだけに、

やりがいも大きかった。

スピードを落とした時、運転席から見える景色にも愛着がある。

 古里に新幹線が通ると知り、自然と興味が湧いた。

当時、新幹線運転士の資格を取得するには、

在来線運転士経験3年以上という条件があった。

「順調に進めば開業に間に合う。挑戦しない手はない」。

3年後、迷わず志望した。

 新幹線の運転は在来線とは「全く違った」。最も神経を使うのは定時性。

運転中は常に頭を使う。速度、距離、時間-。

「計算が苦手だから『電卓持っていかなきゃ』って思った。

もちろんそんな運転士はいないけど」

 約4カ月の研修や試験を経て19年11月、

晴れて九州新幹線鹿児島ルートで運転席に座るようになった。

漠然と抱いた夢は、この頃には、はっきり像を結んでいた。

「私は地元で新幹線を運転する」。

職場や家族にあえて宣言することで自らを鼓舞した。

今年4月、長崎支社に異動。新幹線の車掌や整備の資格も取った。

 5月、走行試験初日の運転を一部担当し、故郷へ“凱旋(がいせん)”。

しかし、全体のスケジュールが約1時間遅れた。

「通常営業ならあり得ない。お待たせして申し訳ない」。

不安な気持ちで車両を諫早駅のホームに進入させると、

手旗を振って待ち構える大勢の市民が見えた。

その笑顔に心からほっとし、うれしさが込み上げた。

 女性の駅員や車掌、在来線運転士は増えてきたが、

JR九州の現役の新幹線運転士は2人だけ。

かつての自分が先輩たちに憧れたように

「女性が運転士を目指すきっかけになれるとうれしい」。

 

新たに芽生えた夢も乗せて、真新しい「かもめ」が、走り出す。

 

この、西九州新幹線開業を機に、退職する人、

自分のふるさとで、新幹線の運転手さんになる人 

どちらも応援したいですね