スポーツ報知に乗っている記事ですが

 

林家こん平さん死去 77歳「笑点」で人気「1、2、3、チャラ~ン」

2020.12.21 14:56 スポーツ報知

2016年4月、笑点での思い出を語った林家こん平さん

 

 日テレ系「笑点」の解答者として知られる

落語家の林家こん平(本名・笠井光男)さんが17日午後2時2分、

誤嚥(ごえん)性肺炎のため死去したことが21日、分かった。77歳。

 

 

関係者によると葬儀・告別式は19日に近親者で済ませた。

2005年7月に、難病の「多発性硬化症(MS)」であることを公表。

一線からは退いたものの、一門の落語会や落語家仲間による

卓球サークル「らくご卓球クラブ」では元気な姿を見せていた。

最後まで再び高座に上がることを夢見ていたが、その願いはかなわなかった。

 

 あふれんばかりの笑みで「1、2、3、チャラ~ン」と、

ファンと共に声を合わせるこん平さんの姿を、もう見ることはできない。

 

 6人兄弟の末っ子として生まれ、

中学卒業と同時に上京して初代林家三平の弟子となったこん平さんが、

全国区の人気を得たのが、66年から出演を始めた日テレ系「笑点」だった。

自らの出身地である新潟県千谷沢村(現在の長岡市)を「チャーザー村」と呼び、

地元ネタで観客を沸かせた。

「チャラ~ン」も、元々は同番組での自己紹介の締めから始まったものだった。

 

 40年近く日曜のお茶の間を楽しませてきたこん平さんに、

突然のアクシデントが襲ったのは、2004年8月。

当初は、のどの使い過ぎが原因で、

声帯に小さな固い突起物ができる「声帯結節」と診断された。

1か月ほど入院して安静にすれば治るとされ、

早期復帰が見込まれていたが、なかなか体調が回復しなかった。

 

 05年に判明した病名は「多発性硬化症」。

厚生労働省が特定疾患に指定しており、脳や脊髄に炎症が起きる難病。

こん平さんも、噺(はなし)家の命である“言葉”が不自由になり、

高座に上がるのをあきらめざるを得なくなった。

 

 それでも、トレードマークである笑顔が消えることはなかった。

趣味が高じて87年に三遊亭小遊三と結成した「らくご卓球クラブ」の練習には

積極的に顔を出し、リハビリにも取り入れていた。

09年12月には、東京・池袋演芸場で5年7か月ぶりに

定席(通年落語が聞ける場所)へ“復帰”。

10年3月の自著の発売記念会見では「今でも復帰を目指している?」と聞かれ

「ハイ、そうです」と元気よく答えていた。

 

 再びファンの前で落語を披露するのはかなわなかったが、

天国で09年11月に亡くなった5代目三遊亭円楽さん、

18年7月に亡くなった桂歌丸さんと「大喜利」をしているに違いない。

 

 ◆林家 こん平(はやしや・こんぺい)本名・笠井光男。

1943年3月12日、新潟県生まれ。

中学卒業後に上京し、初代林家三平に入門。

62年11月、二つ目昇進。66年5月から日テレ系「笑点」のメンバーに。

72年9月、真打ち昇進。80年、初代三平の死去後は一門を引き継ぐ。

2004年9月、「笑点」を降板。05年7月、多発性硬化症(MS)であることを公表。

 

ということで、こん平さんと言えば、

視聴者参加型挨拶と言われている

「1・2・3、チャラーン。こん平でーす!!」

出身地は「チャーザー村」

実際は、

新潟県刈羽郡千谷沢村(にいがた けん かりわ ぐん ちやざわむ ら)

(後の小国町、現:長岡市小国町千谷沢)

 

大きな声であいさつしているのが印象的ですね

 

あと笑点が地方で公演するときには

新潟以外でも

「ふるさとのみなさん、おなつかしゅうごさいます・・・・」

 

「たくさんのお土産を頂きましてありがとうごさいます、

ここで皆さんにお知らせがあります、

私ののカバンには、まだ若干の余裕があります・・・」

 

と言って会場をわかしていました

 

この、チャラーンの掛け声は、

笑点の出演こん平さんからを引き継いだ、林家たい平さんや、

「日テレアナウンサー大喜利」に定期的に出演している

日本テレビアナウンサーで、こん平師匠直伝の視聴者参加型挨拶 最後の継承人と

言っている、藤井恒久さんに引き継がれていますね。

 

多分上の世界で、5代目三遊亭圓楽さんや、桂歌丸さんと

再会していると思いますね

 

最後に、謹んで、林家こん平さんのご冥福ををお祈りします。