東京出身の社会学研究家、加藤諦三さんの言葉はとても意味がある、

「自分に気づく心理学」で強く関心させられた一部を再確認したい。

 

規範意識のつよい人は生きることに苦しむ

 規範意識が肥大化している者などもそうであろう。生きているという確かさを失ってしまったので、規範意識でそれを得ようとする。そこで規範意識が肥大化してしまう。すべてが「~するべき」で処理され、柔軟性を欠いてしまう。

 自分をも、他人をも許さないような過剰な規範意識に苦しんでいる者は、自分が二つに分裂してしまっているのである。そしてそのことを認めることができないでいるのである。(p.60)

 

法則に則って行動することを大切に扱う、

そのようになれば自分の思いを通り超えて、

ルールを大前提に活動することになる。

何となく正しそうな感覚ではあるが、

さて、どうなんだろう。

自分ならではの意識を貫けないのは、

生きるに値するのか?

自分の本音ではない法則のために、

自分を二つに分裂してい行動をする。

 

これは生きることを楽しめなくなってしまった人達の意識である。散歩していても、何かこんなことをしてはいられないという気持ちになり、散歩を楽しめない。一人で椅子に坐って、風がほほをなでていく、あーいい気分だなあと感じて満ちたりるというようなことがない。いつも何かこんなことをしていてはいられないと焦る。(p.61)

 

緩やかな春風、

暖かい初夏の日差し、

それらの自然の与えるもの、

そのものを味わうことができない。

そんなことには触れずに、

自分ではない本心で動く。

それはどうなんだろう。

この世で起こる数えきれない出来事、

動き続ける時間、そんな世の中では異なる現象が無数にある。

自分なりの思考で吟味する瞬間を持つべきではないのか、

そして、ケースバイケースで人とと語り合いを行う。

自分が奇想天外であったとしても、

予測もできない長時間をいただき、

何度も自分なりに考え抜き、

他者と語り合い、自分を見出してみる。

それが人ではないか。

 

 自分に自信のある人というのは、このように自分が分裂していない人である。自信というのは、決して他人の評価から生まれてくるものではない。他人がどんなにその人を高く評価しても、心の分裂している人は自分に自信が持てない。

 また、だからこそ他人がそれほど高く評価していなくても、生きることを楽しみ、いつも気持ちの安定している人もいるのである。(p.62)

 

何となく社会で他者から評価されて生きてみたい・・・

そんな心はありがちである。

本当の自分ではない、

社会に合わせて形作った人間として、

興味を持たれる。

 

しかし、

待てよ・・・

それは自分ではない。

本当の自分の考えを協議してみて、

自分が本心で考えたい意向があるべきであろう。

本心ではなく、自分を分裂してしまうのは惜しい。

多少社会に嫌われても、恰好の悪い姿になったとしても、

至らない時代遅れの自分らしくあるべきだろう。

 

 

(鎌倉市民のための農地、えらく良い場所である)