「怒りの捏造」と、『悪口脳」症候群 | 馬術稽古研究会

馬術稽古研究会

従来の競技馬術にとらわれない、オルタナティブな乗馬の楽しみ方として、身体の動きそのものに着目した「馬術の稽古法」を研究しています。

ご意見ご要望、御質問など、コメント大歓迎です。

「こらダメッ!」

「NOッ!、やめなさい!」

「オラァ!何やってんだコノヤロー!」



  乗馬施設や牧場などでしばしば見かけるのが、馬を扱っている間中、ずっと大きな声で馬を「叱り」続けているような方の姿です。


  習い始めの頃から、
「馬を扱うときには声をかけ続けなさい」
あるいは、「甘やかして悪い癖をつけてしまわないように『毅然とした態度』で臨みなさい」などと叩き込まれ、

それをずっと守り続けているという方も多いでしょうし、


あるいは、周囲に他の人馬がいる中で馬に暴れられたりして「悪目立ち」してしまうことで、「アイツは馬を制御出来ない奴だ」と見なされたり、

周りに迷惑をかけることで白い目で見られたりするのではないかという不安から、


「これは馬が悪いんですよ」

「私はちゃんとやってますよ」

というアピールのために、意図的にそうしているような人も結構いるのではないかと思います。



  いずれにしても、要は、怒りの感情を自ら作り出し(いわば『捏造』し)、

馬を脅かしたり、周囲にアピールしたりするための「出し入れ可能な道具」として使っているわけです。


  こうした感情の使い方というのは、人間相手の場合でもよくみられます。


例えば、喫茶店で店員さんが誤ってコーヒーをこぼしてしまい、服を汚されてしまったというような場合、


  普段はそんなことはしないという人でも、
買ったばかりのお気に入りの服だったりすれば「ついカッとなって」大声で怒鳴ってしまうかもしれません。


  それは突発的な抗することの出来ない感情であり、いわば不可抗力とも考えられそうですが、


もしその時、ちょうど手元に鋭利なナイフがあったとして、「カッとなって」その店員さんを刺したりするだろうか、と考えてみると、

(稀にそういう方もいるかもしれませんが)おそらくほとんどの方はそこまではしないだろうと思います。


  つまり、突発的に激昂しているように見えても、実はその裏で相手や周囲の反応を観察し先の展開を予測しながら次の行動を選択していたりするわけです。



  有名な「アドラー心理学」の中に、

『怒りに駆られて大声を出すのではない。大声をを出すために怒るのだ。』

というような話がありますが、


  上のような状況ならば、わざわざ大声を上げなくても、事情を説明すればお店側は丁寧に謝罪した上でそれなりの措置をしてくれるのが普通だと思います。


  にもかかわらず、わざわざ大声で激昂してみせるのは、手間を惜しんでか、説明する能力がないのか、とにかくより安直に相手を屈服させるための道具として、「捏造」した怒りの感情を使用しているわけです。


  別の例を挙げれば、

スーパーなどで、ふざけたりゴネたりする子どもに向かって見るからに不機嫌な感じで感情をぶつけていた親御さんが、


そこへ電話がかかってきて、それが子どもの学校の先生だとわかった途端、別人のように明るく丁寧な口調に変わり、

電話を切った途端に再び険呑な感じで子どもを罵り始めたり、

などということもよくあることです。


  これなども、「怒り」が自由に出したり引っ込めたり出来る道具として使われているわかりやすい例と言えるでしょう。



  このように近視眼的な目的と手段という論理によって、怒りの感情やその雰囲気を捏造して目的達成のための安直なツールとして用いることを繰り返していると、


だんだんそうした行動パターンが癖になり、自分でも気づかないうちに無意識的にそのように振る舞うようになります。


  それが冒頭で挙げたような、馬の仕事の現場でよく見かける光景の理由の一つなのだろうと思いますが、


こうした人間の行動によって、時に様々な問題が生じてきます。


  例えば、怒りの感情を露わにし、怖がらせることで馬を制御しようとするようなことを繰り返すことで、人間に対する不信感を蓄積させ、


臆病で、事あるごとに必要以上に大きなリアクションで反応するような感じになったり、

そうして暴れることでまた怒られることを予測して勝手にパニックを起こしたり、

というような「悪循環」に陥ってしまったり、


逆にそうした扱われ方に慣れることで、

強いプレッシャーやムードを作り出すことが出来ない人に対しては侮って反応しなくなったり、

あるいは反抗するようなフリをして逆に脅してくるようになったり、

人のために動くことを完全に拒絶して膠着するようになったり、


というような馬たちの姿を見たことがある方は少なくないのではないでしょうか。



  また、そうした調教上の問題だけでなく、そのような感情行動を繰り返すことは人間自身の精神状態にも大きな影響を及ぼすことが考えられます。


  ことあるごとにネガティブな感情を捏造する癖がつくと、それをコントロールしようとしている対象にぶつけるだけでなく、

他人と共有することで安直な「人間関係安定化ツール」として利用するようになります。


  いわゆる「敵の敵は味方」というもので、

同じ対象への怒りの感情を共有する同志であることを確認し合うことによって、コミュニティ内における立場を保とうとするわけですが、


これには、感情を対象にぶつけて屈服させ従わせることによる満足感とはまた違った、地位確保による安心感とか自己肯定感を得ることが出来るという作用があるようで、

これにハマると、誰かと一緒にいる時には常にそれ以外の誰かの悪口を言っている、というような行動パターンになりがちです。


  そうなると、そうした悪口を次から次へと生産する為の「回路」が脳内に形成され、何かにつけて瞬時に怒りの感情が言語化されて頭の中を占めるようになり、


周囲に共有する相手がいない時でも常に

「ふざけんな!」

「クソが!」

「死ねよ!」

などと言う言葉が自然と口から漏れ続けるようになったりします。


  そう考えてみると、馬を扱っている間中、何かにつけてすぐキレたりブツブツ文句を言い続けているような「怒りっぽい」感じの人というのは、


他人の行動に対しても常にいちいち突っ込みどころを探して悪口、陰口の材料にしているようなところがあるように思います。


動物好きな「いい人」が多そうなこの業界で、人間関係で問題が生じることが少なくないということの理由は、こんなところにあるのかもしれません。




  気持ちを相手に伝えること、共有することは、人間が生きる上で大切なことだと思いますが、


それを近視眼的な目的達成のための道具として安易に使用することには、

人間性を低下させ、良好な関係を築くべき人や動物からの信頼も幸福感も得られなくなってしまいかねない、という大きな副作用もあるということを、

心に留めておく必要がありそうです。