指導者の「資質」 | 馬術稽古研究会

馬術稽古研究会

従来の競技馬術にとらわれない、オルタナティブな乗馬の楽しみ方として、身体の動きそのものに着目した「馬術の稽古法」を研究しています。

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江戸時代の剣術書、『猫之妙術』の中に、以下のようなくだりがあります。

「師は其の業を伝へ、其の理を暁(さと)すのみ。
其の真(まこと)を知ることは、我にあり。

是を自得と云。

以心伝心ともいふべし。
教外別伝ともいふべし。

教へをそむくといふにはあらず。
師も伝ゆること能はざるをいふなり。

ただ禅学のみにあらず。
聖人の心法より、芸術の末に至るまで、自得の所はみな以心伝心なり。
教外別伝也。

教へといふは、そのをのれ(己)に有りて、みづから見ること能はざるところを、指して知らしむるのみ。
師より是を授くるにはあらず。

教ることもやすく、教を聞くこともやすし。
只をのれにある物を、たしかに見付けて、我がものにすること難し。
これを見性といふ。

悟とは、妄想の夢の悟(さ)めたるなり。
覚むるといふも同じ。
かわりたる事にはあらず。」

(師匠にできることは、その術技を伝え、理合を諭すことだけである。

術の奥旨を悟るのは、あくまでも修行者自身であり、これを自得というのである。

術の奥旨は禅でいう以心伝心、教外別伝で、文字や言葉でなく学びとるものである。

これは師匠が教えないのではなく、教えることができないものだからである。

これはなにも禅だけではなく、古の聖人の教えから、種々の芸事に至るまで、
自得というのはすべてそうである。

教えることは、弟子が本来持っていながら自覚できないものを自覚できるように導くことであり、師匠が持っている物を授けるのではない。

言葉で教えるというのは簡単で、それをただ頭で理解するのも難しいことではないが、自分に備わっている物を自覚し、自分のものとすることは難しいものだ。

これを禅で『見性』という。

『悟る』というのも、迷妄から『覚める』ということで、同じことなのだ。) 



現代のスポーツなどでも、指導者が自分の感覚を基に、様々な譬え話などを駆使しながらアドバイスをするのは、

相手の「気づき」を促し、相手が既にできるはずの動き、備えているであろうと思われる能力の中からその場にふさわしいものを使えるようにするための、試行錯誤に過ぎないのであり、

指導者が持っている能力を与える訳ではない、ということが言えるでしょう。

  学者者が自身の能力をいかに自覚して「術の奥旨を悟る」ことが出来るかは、
あくまでもその人自身にかかっています。

  その意味では、相手の「自得」を促すような指導が出来るかどうかが、
指導者の良し悪しを計る条件の一つだと言っても良いかもしれません。



  ところが、一般的なスポーツなどの指導者の中には、そうは思っていない人も多いようです。

 「 何も知らない相手に、自分が出来る色々な技のやり方を教えてやるのがコーチの仕事であり、

だからこそ、優秀な競技者を育てるためには、自分のような優秀な競技経験者が教えるのが一番なのだ。」

そう信じて疑わないような指導者というのも、結構存在するのではないかと思います。

  そうした指導者は、自身やその師匠、流派の競技会などでの実績を根拠に、自分の技術を「正しい」ものと信じ込み、ただそれを伝えれば良いとしか考えていませんから、

人に教える場合でも、ただ無造作に自身の感覚に基づいて「こうすればいいのだ」と言うばかりで、相手の感覚がどうなっているのかといったことまでは深く考えないことが多いものです。

  そうして、自分がかつて習った時と同じように、言う通りに出来ないと「何んでやらないんだ!」と罵詈雑言を浴びせ、「センスがない」と切り捨てたりするわけです。

 
 競技者として成功を収めた「名選手」が必ずしも「即ち名伯楽」とはいかない、
ということの理由の一つは、そのあたりにもあるのでしょう。



  逆に、選手としての実績はそれほどではなくても、指導者として教えるのはとても上手な人というのもいます。

 そういう人は、上手く出来ないときの感覚を経験的に理解した上で、
本当に上手な人の動きというのがどういうものなのか、ということを論理的に考え、出来ない人とはどう違うのか、といったことを深く研究していて、

それを基に、相手の上達の段階ごとの身体感覚の変化などを的確に捉え、それに応じたアドバイスをすることが出来るからなのかもしれません。


  そうした指導者は、競技成績などの目に見える成果がない分、自身がある程度出来るようになっても慢心することなく、「これではまだまだ。もっと上があるはずだ」とさらなる高みを目指すような姿勢によって、

とりあえず目に見える「結果」を出すための技術指導だけではなく、
学習者がそれぞれの段階で、工夫すること自体を楽しみながら上達を実感出来るような稽古法をいくつも知っていて、

自分と同等の技術や知識、あるいは実績を持たない人に対しても馬鹿にするようなことはありません。



  そうした、「研究者」タイプの指導者に対し、「実績派」の指導者たちが批判するときにはよく、

「自分は出来もしないことを偉そうに
語っている」

「競技にも出ずに上手くなったなどと言っても、所詮ただの自己満足だ」

などと言うのですが、


  自分が知っている「正しい技術」を何の工夫もせずに教えようとして、上手く伝わらないと「センスがない」と切り捨てる、というような教え方と、

本当に上手な動きはこういうものだ、ということを論理的に考え、自分は未だその境地に達していないということを自覚した上で、
他の学習者の人たちと一緒に「(今よりちょっと上手になるために)今はこういう感じで動いてみると良いかも」というような感じで工夫研究していくような教え方と、

どちらかの方が、少なくとも初心者にとって楽しく、上達を実感ししやすいかは自明でしょう。


 また、冷たい言い方をすれば、スポーツというのは所詮自己満足のためにやるものだ、とも言えるかと思いますが、

競技の限定されたレギュレーションの中でとりあえず結果を残すためのテクニックを磨いて、そこで一番になったと満足するのと、

毎回のスポーツ活動の中で、学習者がそれぞれの技術レベルにおいて上達を実感したり、それが出来るような稽古法を追求すること自体に充実感を得る、というようなことの、

どちらの「自己満足」の方が価値が高いか、
と考えてみれば、

これまで当たり前とされてきたことが必ずしも正しいとは言えないような気がします。


  これをお読み頂いている皆さんが
「自得」を促してくれるような良い指導者にめぐり会い、『術の要旨』に少しでも近づいたという実感を得られるようなレッスンを楽しむことが出来ることを願いたいと思います。