「受け身の稽古法」 | 馬術稽古研究会

馬術稽古研究会

従来の競技馬術にとらわれない、オルタナティブな乗馬の楽しみ方として、身体の動きそのものに着目した「馬術の稽古法」を研究しています。

ご意見ご要望、御質問など、コメント大歓迎です。

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   乗馬クラブや、個々の騎乗者がどんなに安全対策を講じても、「落馬」というものを完全に阻止することは、難しいものです。
 

  自然を相手にしている以上、どんなに上手な騎乗者でも、どんなに調教された馬であっても、また、どんなに危険がないように外部環境を整えたとしても、様々な要因の絡み合いによって、落馬というものは起こってしまいます。

  後からその原因をあれこれと挙げて、再発防止策を講じてみても、全く同じ条件の組み合わせがもう一度起こることはなく、今度は別の条件によって、再び落馬というのは起こってしまうのです。

 
 
  レッスンの安全を預かる指導者がこんなことを言えば、「不謹慎だ!」と怒られるかもしれませんが、そんな時、私はどうしても、人間の「運命」とか「因縁」というようなものについて考えずにはおれませんでした。
 

「人間の運命は、決まっているのか、いないのかー」。

  宗教や占いに関心のある人でもなければ、そんなことを真剣に考えることもあまりないのでしょうが、私は子どもの頃から、よくそんなことを考えていました。


  そして行き着いた一応の結論は、人生というのは、自分が主役の映画を観ているようなものであり、それが悲劇であれ喜劇であれ、おおむねシナリオは決まっていて、自分にできるのは、役者が自分にふられた役を演じるように、精々その役を味わうことくらいなのではないか、というようなことでした。
 
  たとえ長年の努力によって成功したというような人がいたとして、それも、努力して成功する運命にあった、ということであって、努力するかしないか、というのも結局はその人の運命のうちなのであり、突き詰めれば、どんな聖人や極悪人、大富豪や極貧の人生も、運命というしかないのではないか、というふうに考えたわけです。
 


 
   そんなこともあり、乗馬のレッスンで、何重もの安全策をと講じているのにもかかわらず、それを嘲笑うかのように落馬が起こってしまう現実に直面したりするとどうしても、

「これは因縁によって、そうなることが決まっていたのではないか?」というような気持ちになってしまったりするのです。
 
  人生の中で予期せぬ理不尽な悲劇に見舞われるようのことがあったとしても、後から振り返って「あれがあったから今の自分があるのだ」というように思えたりするのと同じように、

忌まわしい落馬も、それはそれで、乗馬人生の中では意味のある出来ごとであったりするのかもしれません。


 といって、運命だから仕方ない、となすがままに落馬を受け入れてもいいという人も、やはりいないでしょう。

  危機に見舞われることは運命だとしても、少なくとも怪我をしないように「何とかしよう」とするのではないでしょうか。
 

 それは、昔の武術家が敵から斬りかかられたような場面でも、同じなのではないかと思います。

「人間の運命は決まっている。そして同時にまったく自由でもある。」

というのは、武術家の甲野善紀先生の言葉ですが、


  落馬などよりもはるかに「命にかかわる」そのような運命に直面した時、それを運命として納得しつつ、結果はどうあれ、何かしらの対処をしようとしたはずです。


  そうして危機に対して恐れずうろたえず、自然に対処できるようにするための心身の技術として発達したのが、武術であり、仏教や神道といった宗教などであったのではないかと思うのです。

 
  仏教の用語に、「縁」という言葉があります。
 
  前世からの因縁、運命といった意味ですが、「ご縁」などというように、「運命的な出会い」というような意味でも使われます。
 
  そしてその出会いにも、良いものと悪いものがあるとされ、「順縁」「逆縁」などといわれます。
 
  例えば、「順縁」を演出する技術として代表的な「茶の湯」の世界では、一期一会という言葉に代表されるように、縁によって人と人とが出会うということの最高形態が追求されていて、その世界はまさに「出会いの芸術」ともいえるものです。
 
 
  反対に、「逆縁」というのは、互いに殺し合うような、出来れば避けたいけれどもどうしても避けられないという、「因縁」の相手との出会いのことで、武術などはまさに、この「逆縁の出会い」に対処するための技術です。
 
 
  江戸時代以前の武士は、禅の思想の影響を受け、能や茶の湯なども嗜んだといいますが、それは武士が日常的に「逆縁」による命のやり取りを行っていたということと無関係ではなく、

人が人を殺すという「業」を抱えた武士が、その技術を茶の湯と表裏をなすような「逆縁の出会い」の芸術として高めることで、なんとか肯定しようとしていたのだ、とも考えられます。
 
 

  私たちの行っている乗馬も、馬との「一期一会」の出会いを味わう、という意味では、茶の湯の精神と似たところがあるのと同時に、

本来は仕事や戦いなどの中で起こる様々な状況に対して、恐れず、うろたえず、自然に対処するために発達してきた技術であるという面では、武術に共通する部分もあるように思います。


  そして、乗馬中に突然起こる「落馬」という運命による生命の危機に対して身を処する技術、という意味では、「受け身」というのは正に「逆縁の出会い」に対処するための技術であるといえるでしょう。
 

  落馬しても、「受け身」という形で自然に対処することが出来れば、身体的、精神的なダメージを軽減できるだけでなく、

そのような結果になったことに対して後から「なるほど」と納得できたり、自然とはこういうものだ、というような確信を得ることさえ出来るかもしれません…。
 

 

 
  前置きが長くなりましたが(笑)、

ここからは、乗馬における『逆縁』の運命、即ち落馬に対処するための方法について、考えてみたいと思います。
 
 
・怪我をしにくい落ち方
 
  落馬のときには、とりあえず、「落ちる側の鐙が足から外れてから降りる(落ちる)」ということを心がけるだけで、足から着地できる可能性がかなり高くなると思います。
 
  普段から、下馬するときに、手を馬の頚の付け根辺りに置いて体重を支えたら、鐙を外しておいて、ポンと飛び降りる、というようなことを練習しておくだけでも、いざという時に役立つかもしれません。



・転び方  ~受け身の稽古

  足から着地できなかったり、着地できても転倒してしまったときには、「受け身」が取れるか否かで、身体へのダメージが随分違います。
 

 ① 「後ろ受け身」

  比較的ゆっくりした動きからの落馬の際危険なのが、地面にドスンと「尻餅」をついてしまうことです。
 
  ゆっくりでも通常の転倒に比べて落差が大きい分だけ衝撃は大きいですから、脊椎・腰椎の圧迫骨折やヘルニア等を引き起こす危険があります。
 
  また後方に転倒した場合、後頭部を強打して、脳に重大な損傷を受ける危険もあります。

  そこで、後方へ倒れるときには、局部に大きな衝撃を受けないようにするために、身体を丸め、膝を抜いてしゃがんだ体勢から、おへそを見るようにしながら、ゆっくりと後ろに転がるようにします。
 
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  おへそを見ることで、後頭部を打つことを避けられます。
 
  またこのとき左右どちらかに首をかしげるようにすると、首をかしげたのとは反対の方向に体が自然に転がって一回転します。
 
  尻餅をつくのではなく、転がることで落馬の衝撃を運動エネルギーに転換し、ダメージを和らげるわけです。
 
  この「後ろ受け身」を応用して、前向きに転倒したときに、瞬時に身体を反転させて身を守ることもできます。



 ② 「横受け身」

  比較的速いスピードで走る馬から横に落ちた場合、頭部や身体の側面から地面に衝突したり、足から着地したとしてもそのまま転倒してしまって、上肢や肩、頭部や頚椎などを損傷することがあります。

  例えば正座の姿勢から、片方の膝を立て、もう片方の足先を、立て膝をしている足の後ろへ滑らせるようにずらすと、支点を失った体が横へ倒れていきます。
  そのとき身体を丸めてやると、身体が簡単に横へ転がります。
  
  このようにして、身体を丸め、横方向に1回、2回と転がることで身体内部や関節などへのダメージを少なくしようというのが、「横受け身」です。

  練習するときは、正座ではなく、膝立ちから片足の裏を床に着いた姿勢で行い、さらに慣れたら、立った姿勢から片足をもう片方の足の外側へ滑らせるようにして行います。
 
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  片足を横に振り上げ、それを振り下ろす勢いでもう片方の足を払う「一人足払い」ができるようになれば、完璧です。
 
  姿勢が高くなるほど、座った姿勢よりもスピードが出ますが、手をついたりせず、身体をしっかり丸めてやれば、それほど痛くはありません。

  重心を真下へ落とすようにしながら、身体をスッと丸めることを覚えておけば、落馬の際にも落ち着いて対処できると思います。



 ③ 「前回り受け身」

  馬が急停止や、転倒した場合、足から着地できなかった場合など、やむを得ず地面に手をつく場合があります。
 
  このとき肘を突っ張ってまともに衝撃を受けてしまうと、手首や肘、肩などを損傷してしまいます。
 
  両手を手をつくときには、腕立て伏せのように肘を曲げるとともに、肩甲骨を後ろに引くようにすることで、衝撃を吸収・分散し、ダメージを軽減することができますが、手を傷めないために、手をついたところから前転する「前回り受け身」が有効です。

  足を広げて立ち、手と両足で正三角形を作る感じで、前に片手を着きます。
 
  その手の横に、もう片方の手を逆向きに、指先を後ろに向ける感じで置き、その手から前腕→上腕→背中→反対側の尻→足という順に着地していくように転がると、衝撃が少なく、また、転がった勢いでまた立ち上がるようなこともできるでしょう。
 
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  背中が着地するときには顎を引き、おへそをみるように身体を丸め、首の後ろ辺りから着地するようにすると、後頭部を打たずにすみます。


  受け身で重要なことは、重心を低く、地面にできるだけ近くなるようにしてから、しっかり「身体を丸める」ということです。
  
 
  大人になると、「でんぐり返り」をする機会もそうそうないと思いますが、受け身のコツを知っておくことで、日常生活においても怪我を防ぐことにつながりますから、寝る前にでも布団の上でゴロゴロやって、転がることに慣れておくと良いのではないかと思います。
 

 

 乗馬を含めたスポーツの競技が成立するのは、人間の作った「こういうものが素晴らしい」という絶対的な価値観(乗馬の競技が日本であまり普及しないのは、その価値観が一般の人たちには分かりづらいということも要因の一つでしょう。)にしたがって優劣をつけるということが共有されているからです。

 
  私たちの社会においても、社会的成功者に高い価値を置くという前提で、努力すれば、運命は自ら切り開くことができる、あるいは、努力した者が成功することが公平である、「努力は尊いものだ」という通念が倫理となっています。

  しかし現実には、人に与えられている条件などというものは平等ではありえず、努力することが出来る機会に恵まれるか、また努力したとして、それが報われるか、ということも、実際にはその人の運次第ということも多いものです。


  努力して成功した者がいい人生がおくれる世の中であるべきだ、それが公平だ、という考え方は、努力する機会を得て成功した人生を高く価値付け、努力できなかった人生を卑下しているとも言えます。
 
 ですが、そのような貧富、善悪、成功失敗、勤勉怠惰といったあらゆる基準を、「芝居の配役」程度の相対的なものでしかないとすれば、あらゆる運命の価値は等しいと言えます。
 
  そのように考えれば、人間は「平等であるべき」なのではなく、「平等でしかありえない」ということになり、

乗馬においても、レッスンの出来不出来や競技の結果、落馬といったことに対して一喜一憂するような必要もなくなるでしょう。
 

  落馬の危機に対処する方法を考えることは、馬術に関する一般的な価値観や固定観念から自由になって、心身の平衡を保つための「心の受け身」を身につけるためにも有効なのかもしれません。



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