【遠藤のアートコラム】マリー・アントワネットvol.1 ~未来の王太子妃の姿~ | 文化家ブログ 「轍(わだち)」

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ルイ15世の孫とマリー・アントワネットの政略結婚は、ヨーロッパの覇権を争うライバル家同士を結ぶ重要なものでした。そのため、彼女の姿を伝える肖像画には細心の注意が払われたようです。

 

今月は、 森アーツセンターギャラリー(東京・六本木)で開催されている「ヴェルサイユ宮殿《監修》マリー・アントワネット展 美術品が語るフランス王妃の真実」の作品を紹介しながら、マリー・アントワネットについてご紹介します。

 

■今週の一枚:《チェンバロを弾くオーストリア皇女マリー・アントワネット》(※1)■

フランツ・クサーヴァー・ヴァーゲンシェーン
《チェンバロを弾くオーストリア皇女マリー・アントワネット 》1770 年以前
ウィーン美術史美術館 Kunsthistorisches Museum, Wien


―この上なく端正な人を見つけることができても、
これほど感じのよいお方を見いだすことはできないと思います―

 

上記は、フランス国王ルイ15世の命を受け、オーストリア皇女マリー・アントワネット(1755-1793)が王太子妃となるための教育係としてウィーンに遣わされたヴェルモン師の言葉です。

 

皇女はさほど教養もなく、大して勤勉でもなかったようですが、それでも彼は、アントーニアと名付けられた少女の魅力に引き付けられたようです。

ここウィーンで彼女を見た人がフランスの地でいかなるイメージで伝えられたとしても、私たちはこの魅力的な表情に見て取れる、優しく、温和で、明るい雰囲気に驚くことでしょう」と伝えています。

 

1755年、マリー・アントワネットは、ハプスブルク=ロレーヌ家の皇帝フランツ1世と、オーストリア大公マリア・テレジアの娘として生まれました。

 

15番目の娘に対し、両親は宮廷作法に重きを置かなかったようで、のびのびと育った彼女は、真面目さには欠けていたようですが、人の心をとらえる魅力的な少女へと成長していきます。

 

当時、台頭するプロイセンに脅かされていたオーストリアは、それまで長く対立してきたフランスとの同盟という、外交革命と呼ばれる決断をします。

 

長きにわたりヨーロッパの覇権争いをしてきたフランス・ブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家の政略結婚が長い交渉の末に決定。

マリー・アントワネットは、フランス国王ルイ15世の孫(後のルイ16世)へと嫁ぐことになりました。

 

この交渉の間、許嫁であるオーストリアの皇女の姿をフランスへ届けようと、たくさんの肖像画が制作されました。

 

※1 フランツ・クサーヴァー・ヴァーゲンシェーン

《チェンバロを弾くオーストリア皇女マリー・アントワネット 》1770 年以前

ウィーン美術史美術館 Kunsthistorisches Museum, Wien

 

フランツ・クサーヴァー・ヴァーゲンシェーン(1726-1790)によるこちらの作品もそうした1枚です。

 

肖像画の中で若きオーストリア皇女はチェンバロの前に座っています。

オーストリアの宮廷は、家族で狩猟に出かけたり、バレエやオペラを観覧したりと、非常に家庭的だったそうですが、マリー・アントワネットは幼い頃から行き届いた音楽の教育を受け、皇女自らバレエやオペラを演じることもあったといいます。

 

しかし、我が娘の魅力を最大限に引き出した肖像画によって、フランス宮廷を魅了しようとしたマリア・テレジアは、なかなか満足する作品を得られなかったようです。

 

許嫁の肖像画がひとつも送られてこないフランスのルイ15世は業を煮やし、オーストリアのシェーンブルン宮殿にフランスの画家を派遣することにしました。

 

当時、最高の肖像画家とされたのは、フランソワ=ユベール・ドルエ(1727-1775)でしたが、彼は法外な報酬を要求したため、彼に代わる画家が選ばれることに。

 

派遣されたのは、ジョゼフ・デュクルー(1735-1802)という、モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥールの弟子でした。

 

画家は美容師を伴ってウィーンへ到着。

美容師は高く結い上げられていた皇女の巻き毛を下ろし、少し広すぎるおでこを目立たせないようにするという任務を巧みにこなしました。

こうして描かれた彼女の姿に母マリア・テレジアも、フランス宮廷も満足したそうです。

 

フランツ・クサーヴァー・ヴァーゲンシェーンの肖像画でも彼女は毛先を背中に流しています。このことから、この作品がフランス出発の直前に制作されたと判断することができるそうです。

 

※1 チェンバロを弾くオーストリア皇女マリー・アントワネット(部分)

 

1770年4月21日、14歳のマリー・アントワネットはウィーンの宮廷と家族に永遠の別れを告げ出発しました。

 

※2 アンドレ・バセ 《マリー・アントワネットのヴェルサイユ到着》1770 年

ヴェルサイユ宮殿美術館 ©Château de Versailles

 

こちらはフランスの王宮へ向かう行列を描いた作品です。

 

長大な随行団の先頭はフランスとスイスの衛兵たち。続いて護衛、黒と灰色の衣装を着た近衛騎兵、さらに衛兵の近衛騎兵が続きます。歩いている従者たちに取り巻かれた馬車の中にいるのがマリー・アントワネットです。

 

彼女と伴に馬車に座っているのはフランスで侍女を務めるノアイユ夫人です。

彼女は後に王太子妃となったマリー・アントワネットから「エチケット夫人」とあだ名をつけられた人物。

 

5月7日にストラスブールで皇女を迎えた夫人は、馬車の中でもマリー・アントワネットにこれからの作法について説明しているのかもしれません。

 

到着まで、各地で数々の歓待を受ける間、マリー・アントワネットは微笑みを絶やさなかったそうです。

一行は5月16日の昼頃にヴェルサイユへ到着。

結婚の祝福式は、礼拝堂で13時から14時にかけて執り行われ、王族からなる盛大な随行団は、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間から、礼拝堂へと王太子と王太子妃を導きました。

 

新郎新婦はとまどう様子もなく、すべてはつつがなく執り行われた」とクロイ公は証言しています。

 

その後も続く祝宴の数々。

同日の夜には、ヴェルサイユ宮殿の新しいオペラ劇場の落成式が執り行われ、結婚を祝う祝宴初日のフィナーレを飾りました。

 

この時、床面が2階と舞台の高さにまで持ち上がる仕掛けによって、広大な空間を作り出し、その中心に王家用のテーブルが設えられたそうです。

 

宮殿内は豪華絢爛に装飾され、贅を尽くした品が結婚記念に制作されました。

 

オーストリアからやってきた王太子妃の若さと愛らしさはフランス人を魅了し、歓喜のうちに迎え入れられました。

 

多くの画家がその肖像画を描くという野心を抱き、遠くへ嫁いだ娘の成長した姿を待ち望む母、マリア=テレジアのためにも、数々の肖像画が描かれ続けることになるのです。

 

続きはまた来週、マリー・アントワネットについてお届けします。

 

参考:「ヴェルサイユ宮殿《監修》マリー・アントワネット展 美術品が語るフランス王妃の真実」カタログ 発行:日本テレビ放送網

 


 

※1 フランツ・クサーヴァー・ヴァーゲンシェーン 《チェンバロを弾くオーストリア皇女マリー・アントワネット》1770 年以前

 

油彩、カンヴァス 134×98cm

ウィーン美術史美術館 Kunsthistorisches Museum, Wien

 

※2 アンドレ・バセ 《マリー・アントワネットのヴェルサイユ到着》1770 年

ビュラン彫り版画、ステンシルによる水彩 25.2×34.4cm

ヴェルサイユ宮殿美術館 ©Château de Versailles

 

 

<展覧会情報>

「ヴェルサイユ宮殿《監修》マリー・アントワネット展 美術品が語るフランス王妃の真実」

2016年10月25日(火)-2017年2月26日(日)

会場:森アーツセンターギャラリー(東京・六本木)

 

開館時間:午前 10時-午後8時(但し、火曜日は午後5時まで)

     ※入館は閉館の30分前まで

休館日:会期中無休

展覧会サイト:http://www.ntv.co.jp/marie/

 



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