クラーナハは、大量の作品を世に送り出し、幅広い商業活動で成功し、ヴィッテンブルク市の市長も務めました。彼はいったいどのような人物だったのでしょうか。
今月は、国立西洋美術館 (東京・上野)で開催されている「クラーナハ展—500年後の誘惑」の作品を紹介しながら、クラーナハについてご紹介します。
上記は、ルネサンス期のドイツの巨匠、ルカス・クラーナハ(父)(1472-1547)の作品に対する美術史家ヴィルヘルム・ヴォリンガーの言葉です。
彼の作品が「意味不明な方言と化していた」とは、いったいどういうことでしょうか。
1517年にヴィッテンベルクでザクセン選帝侯の宮廷画家となったクラーナハ。
およそ半世紀にわたり、3代の選帝侯に仕えました。
彼が生きた時代は、イタリアでレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエロといった三巨匠が活躍したルネサンスの時代です。
ルネサンス時代が到来すると、それ以前の美術はゴシック美術と呼ばれるようになります。
ゴシック時代初期、絵画は主に宗教的な目的で描かれました。
教会を装飾し、文字を読めない人にも神の威光や聖書を伝えるために描かれたそれらは、人間味が排除され、平面的で記号的なものでした。
しかし、やがて宗教画も人間的な表情で描かれるようになり、徐々に写実的になっていきます。
そして、「復興期」とも呼ばれるルネサンス時代が到来するのです。
キリスト教支配の下で妄信的な世界に、哲学や科学といった学問が発達した古代ギリシャ、ローマの文化を「復興」させ、人間性を「再生」させようとしたルネサンス時代、芸術家は、古代ギリシャやローマで生み出された彫刻の肉体美や写実的な表現を取り入れるようになります。
レオナルド・ダ・ヴィンチが人体を解剖して学んだように、この時代、解剖学的に正しい人体像や、破綻がなく奥行きのある空間を描くことが最新鋭の絵画でした。
しかしクラーナハは、晩年に至っても、そうした流行に完全に迎合することはありませんでした。
上の作品のように、彼の描くアダムとイヴは妙に手足が長く、仕草もどこか説明的で不自然。
背景も、奥行きがなく平面的です。
ルネサンスの画家は正確な描写や合理的な配列、完璧な調和を目指しましたが、クラーナハの絵画はどこか混沌としていて謎めいています。
そのため、ドイツ・ルネサンスを体現したデューラーなどに比べると、美術史的には知名度が低く、ゴシック的、つまり前時代的な作品を描く画家として扱われてきたのです。
しかし、クラーナハのこうしたゴシック的な特徴こそが、彼の作品の魅力であり、後世の画家たちを虜にした点でもあります。
不自然に引き伸ばされた身体や、奥行きのない背景は、技術的な稚拙さによるものなのでしょうか。
本物らしく描くことをクラーナハはできなかったのでしょうか。
彼の作風の秘密を解くカギのひとつに、彼の成功の秘訣も隠されているようです。
クラーナハは早くから、誰より「素速い画家」と称賛され、墓碑にも「素速い画家」と称する銘文が刻まれています。
その「素速さ」は、単に、クラーナハ本人の筆の速さに由来するわけではありません。
彼の顧客は彼の仕える宮廷内にはとどまらず、各地の王侯貴族や有力市民など、きわめて広範囲にわたりました。その注文に応える「素早さ」を持っていたクラーナハは、当時の北ヨーロッパで最も大量の作品を売った画家だとも言われます。
「アダムとイヴ」という題材だけでも、クラーナハとその工房は50点以上描いているそうです。
毎回凝った構図を生み出しているわけではありません。
この作品に描かれているイヴの姿勢や、地面に横たわる鹿などは、実はクラーナハのほかの絵画にも登場し、モチーフやパーツを使いまわしていたことが分かります。
※1 ルカス・クラーナハ(父)《アダムとイヴ》 1537年
ウィーン美術史美術館 ©KHM―Museumsverband.
しかし、クラーナハはただ反復していたわけではありません。
人物像の姿勢や身振り、周囲の要素を少しずつ変え、アレンジすることで、多彩なレパートリーを生み出していました。
こうした作品は、はたしてどの作品がクラーナハ自身の作で、どの作品が工房の職人の作か識別することは困難だといいます。
しかしそれは、それほど工房のレベルが高かったもいえます。
1508年、クラーナハは、ザクセン選帝侯から紋章を授けられています。
この紋章は、コウモリの翼をもち、冠を戴いた蛇が、ルビーのついた指輪をくわえるというデザインでした。
この紋章を授けられて以降、クラーナハは自分の作品や、工房の生産物に、この図像を署名代わりとして描きこんでいきました。
※2 ルカス・クラーナハ(父)《マルティン・ルター》 1525年
ブリストル市美術館 © Bristol Museums,Galleries&Archives
※2 《マルティン・ルター》(部分)
このマークは、いわばトレードマークであり「商標」です。
クラーナハこの紋章を描きこむことで、工房作品にブランド価値を与えていったのです。
※1 ルカス・クラーナハ(父)《アダムとイヴ》 1537年
ウィーン美術史美術館 ©KHM―Museumsverband.
※1 《アダムとイヴ》(部分)
《アダムとイヴ(堕罪)》の作品でも、イヴの足元にこの紋章が描かれています。
《アダムとイヴ(堕罪)》のほうでは、蛇の翼が下がっています。
このタイプの紋章が使用されるようになったのは1537年以降であるため、この作品もそれ以降に描かれたことがわかります。
平面的な表現と単純化や、画家の個性を消したなめらかな筆致など、一定の品質、統一感のある作品を工房から生み出すために、クラーナハは意図して、大量生産に向くような作品を作り上げていたことも指摘されています。
クラーナハの裸婦像の多くは、首元や手首に装飾品が描かれていますが、これは、顔を描く担当、手を描く担当、胴を描く担当を分業化し、その継ぎ目を目立たなくさせるためではないかという説すらあるそうです。
※3 ルカス・クラーナハ(父)《正義の寓意(ユスティティア)》1537年
個人蔵©Private Collection
工房から、一定品質の作品を供給し続けるクラーナハは、芸術家でありながら、「絵師」や「職人」に近い感覚を持っていたのかもしれません。
ルネサンスは、画家がその地位を高め、「職人」から「芸術家」になった時代でもありましたが、そういう意味でも、クラーナハはゴシックの人だったということでしょうか。
しかし、巧みな工房経営術を発揮した「企業家」としては、後のルーベンスやレンブラントにみられる大工房運営の先駆者でもありました。
20世紀の芸術家アンディー・ウォーホルは「ぼくは機械になりたい」と洩らし、「ファクトリー」と呼ばれるスタジオを構え、様々なジャンルやメディアを巻き込んだ「総合芸術作品」の実験を行いました。
絵画、版画、壁画、家具、祝祭用の装飾まで手がけたクラーナハの工房は、ウォーホルの思い描いた芸術活動に近いものがあったのかもしれません。
宮廷画家でありながら、ヴィッテンベルクの市長も務め、そのかたわらに薬種販売業に印刷業、書店業を営み、商才を発揮したクラーナハは、妖しく混沌とした作風とは裏腹に、合理的な人物だったのかもしれません。
彼の画面に個性的で激しい筆跡は見られません。画面を覆う筆触は落ち着いていて、静謐。
しかしながら、クラーナハの作品は、決して無個性ではなく、むしろ、圧倒的な個性を放っています。
道徳的なテーマをエロティックに描き、合理的な思考で非合理的な作品を描くクラーナハ。
彼の巧みな仕掛けは、21世紀の今も、観るものを惑わし続けているのかもしれません。
参考:「クラーナハ展-500年後の誘惑」カタログ 発行:TBSテレビ
※1 ルカス・クラーナハ(父)《アダムとイヴ》 1537年
ウィーン美術史美術館 ©KHM―Museumsverband.
※2 ルカス・クラーナハ(父)《マルティン・ルター》 1525年
ブリストル市美術館 © Bristol Museums,Galleries&Archives
※3 ルカス・クラーナハ(父)《正義の寓意》1537年 個人蔵
<展覧会情報>
「クラーナハ展-500年後の誘惑」
2016年10月15日(土) ~ 2017年1月15日(日)
会場:国立西洋美術館(東京・上野)
開館時間:午前9時30分 〜 午後5時30分(金曜日は午後8時)
※入館は閉館の30分前まで
休館日:月曜日(ただし、1月2日(月)、1月9日(月)は開館)、
12月28日(水) 〜 1月1日(日)
展覧会サイト:http://www.tbs.co.jp/vienna2016/
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