【遠藤のアートコラム】「モデルにむけられた画家の眼差し」vol.2 | 文化家ブログ 「轍(わだち)」

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引き続き遠藤がお届けします【アートコラム】。
2月は、画家にとってのモデルたちはどのような存在だったのか、パスキンや印象派の展覧会をご紹介しながらお届けします。

※1 テーブルのリュシーの肖像

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― アデュー、リュシー
     ADIEU LUCY ―


上記の「さよなら、リュシー」という言葉を血文字で残し、エコール・ド・パリの画家ジュール・パスキンは、モンマルトルのアトリエで自死を遂げました。
1930年6月2日、45歳でした。

翌日、パリの一流画廊で彼の個展が開かれていたそうです。そのとき、この展覧会の主役が既にこの世にないことに、誰も気が付いていませんでした。

連絡のとだえた彼を心配したリュシーが部屋の扉を開けさせると、手首を剃刀で切ったらしく、部屋のバスタブは真っ赤に染まり、そばには血文字が残されていました。そして、窓のノブで首を吊ったパスキンの姿があったそうです。
6月7日に行われた葬儀では、1000人を超える人々が埋葬に参列し、パリ中の画廊が哀悼の意を込めて休業しました。

「リュシー」とは、後年、彼が愛した恋人です。
上記の作品は、そのリュシーを描いたものです。
パリに出て5年目の1910年、パスキンはモデルをしていたリュシーと初めて出会います。

※2 エルミーヌ・ダヴィッドの肖像

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その頃パスキンにはエルミーヌ・ダヴィッドという恋人がいました。
左の作品は、パスキン初期の油彩で、エルミーヌの肖像画です。
パスキンが友人のアトリエで彼女と出会ったのは1907年。
画家、彫刻家であり、聡明で、誰にでも優しい女性だったといいます。

二人は愛し合い、戦争を避けて渡米した際にも行動を共にし、1918年に結婚します。

その間に、リュシーはパスキンの友人でもある画家ペル・クローグの妻になり、息子ギィを授かっていました。

パスキンとリュシーが再会するのは、1920年にパスキンがアメリカからパリに戻ってからのことです。
二人はたちまち惹かれあいます。
当時リュシーは奔放な女性関係を繰り返す夫と別居していました。

妻であるエルミーヌは、二人の関係を察知するとパスキンをリュシーに預けます。
エルミーヌとリュシーの二人は不思議と仲が良く、パスキンの前で並んでポーズをとることさえありました。
三人はよく行動をともにしていたようで、田舎への遠足も、夜の歓楽街を渡り歩く時も一緒だったといいます。ただし、多くの場合モデルや友人等、その他大勢も一緒で、ちょっとした団体だったようですが。

しかし、リュシーは夫や子供を捨てることはできず、二人の関係はそう上手くはいきませんでした。愛し、別れ、また愛すという終着点を見いだせない二人の愛憎は10年にわたって続き、パスキンはリュシーへの愛が深まるにつれて感情のバランスを失っていきます。

加えて、毎夜の放蕩と淫乱の生活から心身ともに疲弊し、病魔におかされていました。

しかし、パスキンの作品はいよいよ独自の境地を開き、「真珠母色の時代」と呼ばれる作品を生み出していきます。

※3 少女-幼い踊り子

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パスキンはときに「さまよえるユダヤ人」と言われます。「さまよえるユダヤ人」とは、十字架を背負ったイエスに冷たくしたことで、最後の審判の日まで放浪を続ける運命を負わされた伝説のユダヤ人です。

故郷のブルガリアを出てから、ドイツで素描家となり、パリへ出、国籍をアメリカに持ち、アフリカへ旅し、フランス各地に遠足し、まさにパスキンは旅する画家でした。

彼は挿絵画家の時代から、当時のいわゆる社会の底辺の人々を多く描きました。
彼等の姿は時に誇張されてゆがみ、時に悪辣な表情を浮かべます。それでも対象に向けられた画家の暖かな目が感じられるのです。

それは旅先でも同じで、現地の飾らない市井の人々を描きました。

※4 二人の少女

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また、彼はたびたび「放蕩息子」という画題を描いています。放蕩の限りをつくして散財し、父の元に帰って悔い改める新約聖書のたとえ話です。パスキンは自身の姿をそこに重ねていました。

家出同然だったパスキンは、母の葬儀に戻った以外、故郷に帰っていません。
パスキンは本名をピンカスと言いますが、雑誌の挿絵画家として活躍し始めた頃、父親から本名ピンカスを使わないように命じられたといいます。

それでも1930年、同郷の友人に帰郷の思いを語ったと言われています。
「この夏には、今度こそ必ずブルガリアに帰らないか……ぼくは、むこうから招かれているんだよ。ソフィア一番の洒落たホテルにとまろう……ぼくは、ヴィユ・マルシュ広場と親父の店がみたいんだ」
しかし、このとき既にパスキンは心身ともに衰弱しきっており、帰郷どころか人生の終結点すら見えていたかもしれないという状態でした。

結局、帰郷の夢は叶いませんでした。リュシーへの愛が結ばれず、画廊と契約し「自由を奪われた囚人」と化したと感じたパスキンは死へと向かっていきます。
生前パスキンは「人間、45歳を過ぎてはならない。芸術家であればなおのことだ」と言っていたそうです。その言葉通り、画家パスキンの人生を完結させるかのように、自らの命を絶つのです。

※5 二人の座る少女

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若くして一人必至に画家の道を歩み、ユダヤ人排斥の声に傷ついていたパスキンにとって、モデルたちや友人、そして愛した二人の女性は、かけがえのない家族であり、居場所だったのかもしれません。

パスキンの描く女性たちの独特なエロティシズムは、キャンバスの前でリラックスした彼女たちの、自然なしどけない姿からにじみ出ます。

一人でいられなかったパスキンは、様々な企画をしては彼等を楽しませて散財し、絵を描いては売り、そしてまた夜の街を渡り歩きました。


レ・ザネ・フォル(Les Années Folles 狂乱の時代)と呼ばれた時代に、陽気な一団を引連れて「モンパルナスの王子」と呼ばれたパスキンの作品は、その時代と生涯を含めて一つの作品となっているのかもしれません。

現在、東京、汐留のパナソニック汐留ミュージアムでは、「生誕130年 エコール・ド・パリの貴公子 パスキン展」が開催されています。国内では16年ぶりとなる大回顧展です。風刺画、初期作品、そして真珠母色の時代と、油彩作品のみならず版画やパステル、コラージュなど珠玉の作品によって、パスキンの世界を一望できます。




※1 ジュール・パスキン ≪テーブルのリュシーの肖像≫ 1928年 油彩、カンヴァス
個人蔵

※2 ジュール・パスキン ≪エルミーヌ・ダヴィッドの肖像≫ 1908年 油彩、カンヴァス
グルノーブル美術館蔵
©Musée Grenoble

※3 ジュール・パスキン ≪少女-幼い踊り子 ≫ 1924年 油彩、カンヴァス
パリ市立近代美術館蔵
©Eric Emo/ Musée d’Art Moderne/ Roger-Viollet

※4 ジュール・パスキン ≪二人の少女≫ 1907年 水彩、紙
ポンピドゥー・センター蔵 
©Centre Pompidou, MNAM-CCI, Dist. RMN-Grand Palais/ Bertrand Prévost/ distributed by AMF

※5 ジュール・パスキン ≪二人の座る少女≫ 1925年 油彩、厚紙(板に貼付)
パリ市立近代美術館蔵
©Musée d’Art Moderne/ Roger-Viollet

<展覧会情報>
「生誕130年 エコール・ド・パリの貴公子 パスキン展」
2015年1月17日(土)~2015年3月29日(日)
パナソニック 汐留ミュージアム(東京・汐留)

問い合わせ:03-5777-8600(ハローダイヤル)
関連サイト:http://panasonic.co.jp/es/museum/



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