早稲田大学体育会スポーツ部の同期会
結束と強化を目的に、卒業年度別に体育会全体の同期会が組織されてから既に数年経つようだが、訪日の機会と重なり、私はこの同期会に初めて参加する。
卒業から35年目の節目の年であり、同期に再会できることは何より楽しみだが、シドニーに住んで25年、私はきっと "浦島太郎" のような気持で参加することになるだろう。
なぜか、私はワクワクしている。
母の49日の法要で訪日したが、学生時代に私の実家を訪れた同期も多く、その誰もが母の手作りのもてなしを喜んだし、滞在期間を延長して同期会への参加を決めた。
この機会が将来に繋がってくれたらいいなぁ。
それはビジネス・チャンスとかではなく、共にスポーツを志した仲間達が、間近に迫った還暦後に、家族や仲間を連れて、"スポーツ天国オーストラリア” を訪れてくれれば、互いにどれだけ楽しい老後が送れるか? という将来への期待だった。
もちろん、還暦とは言え、まだまだ現役として頑張っているだろうし、ピンと来ないと思うが、まあ、滅多に会えない連中だし、今から期待を持ちつ持たれつも悪くはないだろう。
体育会全体の同期会に合わせて、ラグビー部の同期会も開催されることになった。
卒業時の同期は15人。
今では全体で150人も部員が居るそうで "たった、それだけだったの?" と言われそうだ。
少数精鋭という訳では無く、地方の普通高校出身者が大半だった。
今は部員のほとんどが強豪高校出身のようで、数多くの高校日本代表も含まれているようだ。
この写真は入学当時にラグビーマガジンに掲載された写真だが授業出席者は含まれていない。
*前列、右から3人目が私
昭和50年(1975年)入学、もう38年も前のことだ。
当時は空前のラグビーブームが続いていた頃で、入学当初は同期が30人もいたが、卒業の時点では15人に減ってしまい、この中にも退部した者がいる。
同期でもライバルという緊張感があり、正直、自分自身が続けていくのに精いっぱいで、退部する仲間の気持ちや例えば悩みを聞き、それを気遣う余裕は無かった。
短い期間だったが、同じ釜の飯を食べた者だからなのか、全員の名前を私は忘れていない。
最後まで残った15人、しぶとい奴らで、彼らは一筋縄ではいかない個性の持ち主ばかりだ。
それが証拠に、還暦を前にして、各々があちこちの大企業で活躍している。
それにしても、今の大学生とは比較にならないほど、体格的に小さかったし細かった。
まあ、当時でも明治や同志社、リーグ戦グループの選手達にはデカい選手が揃っていたが、彼らから比べれば早稲田の新入部員の体格は、見るも無残なほど劣っていた。
私は、当時のメンバー表に183cm、80kgのロックと記載されている。
今なら高校生より小柄なはずだ。
上級生になってもその差に変化は無く、明治や慶応、同志社の選手達は更にデカくなっていたし、試合となれば、ラインアウトで対面の選手を見上げ、160cm台のプロップも多く、スクラムは、平均体重で10kg、8人で80kg、一人分足りなかった。
それって栄養不足だったの?と妻は不思議がる。
きっと当時は食べる金がなかったんだろう!と私は話をはぐらかす。
当時は体型的にプロップらしいプロップも、ウィングらしいウィングもいなかった。
*写真の後列、プロップ体型に見える2人は共に俊足ウィングだった。
当時、体を大きくするためのウェイト・トレーニングや食事(栄養学)等についての関心は薄く、プロテインはもちろん、専門家のアドバイスなども無かった。
とにかく、食べても食べても走るトレーニングでの消耗に追い付かず太れなかった。
トレーニング中に食べた物が上がって来るのが心配で、昼食はほとんど東伏見駅近くの「三晃庵」か「大村庵」の蕎麦が定番だった。
余談だが、あの当時知った "冷やしたぬき蕎麦" が、今も私の大好物である。
現在、帝京大学が大学選手権4連覇中である。
私達が4年生の時に帝京大学が正式に関東大学対抗戦グループに加盟した。
昭和53年10月1日に行われた明治大学v帝京大学が最初の公式戦だったが、結果は3-37で帝京大学は明治大学にノートライの洗礼を受ける。
35年前の今日、東伏見の早大グラウンドで「早稲田大学v帝京大学」の試合が行われ、結果は24-8で早大が帝京大との初めての試合を制した。
後半27分には、早稲田にとって「創部以来の珍事!」と言われたスクラムトライを記録した。
当時はメンバーの交代が許されない時代、先発メンバーの10人が私の同期だった。
今はメールやフェイスブックのお陰でお互いの様子が手に取るように分かるようになった。
今回の同期会、どんな話題で盛り上がるのだろう?
間違いなく登場するのは、1年生同期だけで行った”大島逃亡事件”の話題だろう。
1年生の春、1年生全員で上級生に "小さな主張" を通そうとしたことがあった。
その主張が通らず、我々1年生は強硬手段に出た。
それまで溜まっていたうっ憤に、坂口の「今日は本気やでェ!」という関西弁で火が付いた。
練習前のスタイルのままグラウンドから消え、小グループ単位で東京在住の部員の家に向かい、服を借りて着替え、金も借り、時間を決めて竹芝桟橋に集合、大島に向かった。
”島に逃げれば見つからない” という浅はかな合意からだった。
その頃、部内は上を下への大騒動となり、心配したOB会も必死だったようだ。
当時はまだマスコミのラグビーへの関心は低く、それでもスキャンダルになり兼ねなかった。
40年経った今なら時効だろう。
その時、言ってみれば、社会や一般の常識も考えない行動に出た1年生の我々に対し、真剣に耳を傾け、私達を良い方向に導いてくれた4年生がいた。
当時彼は主務だった。
主務とは主将の補佐役であり、協会やOB会、他の大学との折衝など、責務の範囲は多岐にわたり、その責任の重さから確かな人格や実務能力が求められる役割だった。
我々1年生が退部処分に至らなかったのは彼のお陰だったかもしれない。
彼は早稲田大学を卒業後、帝京大学の講師として教職に就いた。
あの35年前の帝京大学との試合、彼は帝京大学ラグビー部の監督を担っていた。
帝京大学ラグビー部の基礎を築いた指導者の一人である。
試合後に東伏見の早大ラグビー寮でファンクションが行われたが、後輩の私達に「ありがとう」と頭を下げ、手放しで私達の勝利を称えてくれた。
あの時の紳士的な態度を私は今も忘れない。
2年後、彼は母校早稲田大学を下すまでに帝京大学ラグビー部を成長させた。
後にも先にも、あの35年前の帝京大学戦こそ "同期が最も多く出場した試合" だった。
試合に出場した10人も、出場しなかった5人も、同期全員の気持ちは一緒だった。
さあ、同期会が楽しみだ!