ドアズオープン Doors Open | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

私は何度もオーストラリア人を連れて訪日した。

その度に、単身や家族と一緒の訪日では味わえないような体験に遭遇する。

 

ラブリーなオーストラリア人は、日本中どこへでも平気で入って行ってしまう。

60年代前半に日本遠征で訪日したイースタンサバーブズ・ラグビークラブのメンバー「キアレン・スピード氏」を98年に日本に連れて行く機会があった。

69年の東京オリンピックを契機に大きな変貌を遂げた日本、およそ35年ぶりに訪日したキアレンの驚きは尋常ではなかったはずた。

 

全日本(当時は日本代表をそう呼んだ)との試合が組まれた思い出の「秩父宮ラグビー場」を案内し、その足で国立競技場まで歩いたが、ゲートが開いているのを良いことに、彼は芝生のピッチまでどんどん入って行き、何を思ったか? 数分間ジッとスタジアムと空を見上げていた。

私は学生時代の大学選手権準決勝以来だったが、とても懐かしかった。

それでも、周りをキョロキョロしながら、誰かの咎められるが気になった。

 

両国国技館でも、館内にどんどん入って行き、たまたま出逢った高見山親方と英語で歓談し、想定外のスモーレスラーとの思わぬ出逢いをことのほか喜んだ。

そんな彼を私は、ビクビクしながら追い駆けた。

 

「Wait minutes, I will check」

彼は私の指示を完全無視!「ドアズオープン!」を繰り返した。

ただ、そんな彼の言葉や姿勢が、その後の私に大きな影響を与えることになる。

「ドアは開いているよ、入って行かなければ機会を失うよ」とでも、言われているようだ。

「チャンスはどこにでもあるが、それに挑戦しなければ何も生まれないよ」

確かに、館内に入って行かなければ、偉大な関取「高見山」とフレンドリーに歓談する機会など願うべくも無かったし、彼はその機会を自分で作り出したのだ。
オーストラリアから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

懐かしい思い出を辿って、彼は「夜の銀座を歩いてみたい」と言った。

キアレンの願いを叶え、バーのネオンサイン煌(きら)めく夜の銀座の裏通りに連れて行った。

当時、関東代表や全日本との試合の後に、メンバー達とこの界隈で呑み明かしたそうだ。

バブル破綻から数年経った銀座の裏通りは、60年代とはすっかり様相を替えていたと思うが、それでもキアレンは感慨深そうにネオンサインを見上げていた。

 

何の尻込みもせず「ドアズオープン」の姿勢でドアを開け、店に入って行こうとする。

さすがに私も慌てふためいて、それを制止した

60年代当時、オーストラリア1ドルが400円にもなった時代、外人にはボッタクリも無く、20ドルも出せば銀座のバーでさえ好きなだけ呑めた時代だったはずだ。

そう、彼の感覚は60年代のままだった。

 

「ドアズオープン」が、今では私の行動の指針になった。

以前、「勝者はチャンスをものにする」や「好機逸すべからず」という言葉に出逢ったが、表現は異なるが、私はそれぞれの意味するところは同じと捉えている。

思い立ったらやってみよう、思い立ったら行ってみよう、思い立ったら言ってみよう、そして、思い立ったら挑戦してみよう、それが人の自然な姿なのだろう。

そして、やらないより、やって失敗した方が絶対に良いのだ。

もちろん、人に迷惑を掛けたり、人を巻き込んだりしないのが前提なのだが。

 

近年、多くのスポーツ選手が海外でプレーする機会が増えているが、その逆としても、海外のコーチやプレーヤーが日本を訪れ、日本のスポーツ界で活躍する例も多くなった。

それらは、言ってみれば「ドアズオープン現象」であり、私は歓迎する立場である。

 

日本には古くから「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」というような格言があるにはあるが、それでも、現実はどうなのだろう?

日本開催のセミナーで「質問は?」と投げ掛けても、手を挙げる者はほとんどいない。

選手にデモンストレーションを頼んでも、手を挙げて積極的に飛び出す選手もほとんどいない。

日本人の探究心は旺盛なのは分かるが、シャイな国民性が邪魔をしているような気がする。

それでも、日本人がズケズケと言ったり行動するのを、個人的には好きになれないのだが。


少し話を変えよう。

11月に"モット・ザ・フープル"というロックバンドのコンサートがロンドンで開催される。

高校時代(40年前)に夢中で聴いたロックバンドだ。

ビートルズやストーンズに隠れ、余程マニアックな70年代ロックファン以外、モット・ザ・フープルという名前すら知られていないが、超メジャーな時代があったのだ。

デビッド・ボウイやストーンズのミック・ジャガーと親交が深く、当時のコンサートでは、なんとメジャーになる前のクイーンが前座を務めたほどだった。

 

何枚かのミリオンセラーと一部の狂信的なファンを残し、アッと言う間に解散してしまった。

ボーカルの "イアン・ハンター" がソロで活動を続けたが、何枚かのレコードがリリースされたきりで、その後30年近く、彼の消息を聞くことは無かった。

ロック雑誌には、「イアンは精神病に罹患した」という記事が実しやかに載っていた。

 

07年、イアン・ハンターのソロ・コンサートがイギリスのオックスフォードで開催されるのを知り、私はそれを信じられないまま、チケットを購入した。

その30年近い年月が、彼のカリスマ性を更に増長させていた。

 

オックスフォードのコンサート会場で出逢ったファンクラブの連中(50~60代)、フレンドリーな彼らは、オーストラリアからやって来たジャパニーズの私を「お前こそ本当のファンだ」と言い、会場に私を先頭で入場させ、ステージ前のかぶりつきに案内した。

そして、イアンのパワフルなボーカルと親友ミック・ラルフスのギターに私は酔いしれた。

コンサート終了後に、ファンクラブの会長ウイリアムが私に耳打ちした。

彼はイアン・ハンター本人に会わせてくれると言う。

「こんな瞬間が俺の夢だった

私は60歳を超えたイアン・ハンター本人にそう伝えることができた。

彼は世界中のファンを魅了した本物のロックンローラーなのだ。

偶然ファンクラブの連中に出会い、私にとって伝説だったイアン・ハンター本人に出会えたのも、今思えば、私の身に着いた「ドアズオープン」の姿勢なのかもしれない。
オーストラリアから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ファンクラブの仲間達から11月のコンサートへの誘いが届いている。

宿泊や移動は心配するなフェイス・ブックのメッセージにはそう書かれている。

今、その誘いが私の心を揺さぶっている。

ドアは開いているぜ!

 

日本でもこんな経験があった。

友人が私を赤坂のお洒落なピアノバーに連れて行ってくれた時のことである。
奥の席を見ると、あの谷村新司さんと岸恵子さんがある大企業の社長と静かに飲んでいた。

誰もが彼らに気付きながら遠巻きに眺めていたが、彼らが席を立とうとした時、私は「谷村さん、一曲歌って頂けませんか?」と投げ掛けてみた。

彼は嬉しそうに微笑むと、ピアノの前に座り、「いい日旅立ち」を歌ってくれた。

山口百恵が歌って有名になった曲だが、作詞作曲は谷村新司さんなのだ。

その歌声や歌う雰囲気は言葉にならないほど素晴らしく、涙が出そうになるほどだった。

 

岸恵子さんには「先日、岸さんの "知覧の母役" の映画、感動しました!」と短く告げた。

「私、あの役大好きだったのよぉ。私、一度もオーストラリアには行ったことが無いのよぉ」

岸さん独特の声色が半音上がるような話し方、やっぱり素敵だった。

そう言いながら握手した岸さんの手は柔らかかった。

「ドアズオープン!」 

やってみなければ、言ってみなければ、何も生まれないのだ!