私のパートナー「ノディー」が、05年に他界してから8年になる。
ノディーとは98年に出逢った。
慶応義塾大学ラグビー部から遠征のコーディネートの依頼があり、コーチングを任せられる本物のコーチを探すためにシドニー北部のワリンガクラブを訪ね、ノディーを紹介された。
99年の第4回ラグビーW杯を前にオーストラリア・ラグビー界は盛上がり、ワラビーズ黄金時代の牽引役は元ワリンガ・クラブのヘッドコーチの ”ロッド・マックイーン” だった。
ノディーは選手時代にワリンガ・クラブ1軍でロッド・マックイーンと共にプレーし、現役引退後は共に同ワリンガ・クラブのコーチとして選手達の指導を担った。
慶大ラグビー部は日本ラグビーのルーツチームであり、上田監督直々の依頼もあり、私はより優れたコーチを真剣に探さなければならなかったのだ。
ただ、遠征のプランニングやコーディネートに関して駆け出しだった私には、オーストラリアのコーチがどれだけ親身にサポートしてくれるか? また、日本からの遠征チームを喜ばせるようなコーチングが出来るかどうかは、正直未知数だった。
遠征を任される責任のプレッシャーから、私は遠征に関する様々な知識を得るようになる。
その頃、オーストラリアのラグビー・コーチング・システムは世界一と言われていたのだ。
1980年代にオーストラリア政府がASC(オーストラリア・スポーツ委員会)、AIS(オーストラリア・スポーツ研究所)を組織、ARU(オーストラリア・ラグビー協会)と共に、コーチング等に関するシステムを整備、そして、その結果が90年代のワラビーズの黄金時代を築き、91年と99年の2回、W杯の優勝を勝ち取っているのだ。
当時、オーストラリアのラグビーコーチは、どこを切ってもワラビーズであり、理論(戦略・戦術・スキル他)やコーチングに関する手法(指導プログラム)などが完璧に徹底されていた。
もちろん、コーチ独自の人格やアイデアは求められるが、ノディーは現役ワラビーズ監督の愛弟子であり、コーチングに関する能力は申し分なかった。
日本は、今では外国人コーチの指導が一般化し、その成果も十分表れている。
そして、当時の日本ラグビー界は、元オールブラックスがNZでのプレー引退後に日本を訪れ、チームの一員としてプレーし、チーム全体に影響を与え始めていた頃だった。
そんな彼らは日本代表としてプレーする機会も得ていたが、それが諸外国から「チェリーブラックス」と揶揄(やゆ)されることもあったのだ。
ただ、私はそれが日本ラグビー界の発展に寄与したのは間違いないと考えている。
ノディーと会った時の第一印象は "怖そうな男" の一言に尽きる。
私の知る限り、オーストラリア人には珍しく、偏屈さをそのまま表情に表し、最初の一言は「お前らが本気で俺に任せるなら、俺は本気でやるよ!」 だった。
彼は、クラブラグビー1軍で約300回の出場回数を持ち、オーストラリア・バーバリアンズのバリバリのフランカーとして活躍した経歴を持つ。
オーストラリア・バーバリアンズは、トップクラブから選抜された選手で構成された。
上背は170cm足らずだが、確かに胸板は分厚く、その片鱗は感じられた。
彼はプレーヤーとしてもコーチとしても有名人だった。
当時、私の息子達がプレーするイースタンサバーブズ・クラブ関係者は、私にこう助言した。
「あんなダーティーな(汚い)プレーヤーはいないぜ!」
ノディーをそんな風に悪く評価しながら、彼は続けた。
「同時期に俺はイーストでプレーしたが、対戦相手にしたら、ノディーは一番嫌なプレーヤーだったなあ。小さな身体で、タックルやブレイクダウンの時にタフで激しくて、当時、あんな奴は他のクラブにはいなかったし、俺は一番嫌いなプレーヤーだったぜ!」と付け加えた。
最後に、彼はノディーについてこう言った。
「ノディーは本当にいい奴だし、コーチとしては最高だよ!」
それを聞いて、私は全てをノディーに任せることに決めた。
豪州遠征中のコーチングをノディーに託した慶大ラグビー部は2年続けて豪州遠征を実施したが、2年目のシーズンに大学選手権を制し大学日本一に輝いた。
もちろん、伝統ある慶大ラグビー部のスタッフ・選手の努力、大学やOB会のサポートがあっての優勝だったのは当然だが、その陰に間違いなくノディーの指導も含まれるはずだ。
低迷から優勝まで一気に駆け上がったのは、それら全てが機能した結果、と私は信じている。
この遠征を皮切りに、ノディーは日豪双方で多くの大学や高校のラグビー部、社会人チームや関東代表などのコーチングも手掛けることになる。
そして、それぞれのチームが確かな成果を記録していった。
彼を連れて何度も訪日したが、どこを歩いていても、誰もが彼に道を譲るのが愉快だった。
見た目のイメージとは異なり、ノディーは本当に心優しい男だった。
一番好きな食べ物は "餃子" と ”いちご” だった。
有楽町駅前のフルーツショップでイチゴを1パック彼に渡したが、アッと言う間に完食。
余りの美味しさに驚き、通り掛かった女性に純粋な気持ちで1個進呈しようとしたが、その女性は恐れをなしてノディーから飛びのき、何度も振り返りながら、逃げるように速足で去った。
愉快なエピソードだったが、警官でも呼ばれたら面倒だと思い、その場から退散した。
晩年、オーストラリア女子ラグビー代表のコーチングにも深く関わり、女子日本代表の選手(留学生)を自宅にホームステイさせて自分のチームで育成したこともあった。
05年4月、長年同棲していた女性(ロビン)と正式に結婚。
結婚式には私や妻も出席し、二人の門出を心から祝った。
ノディーに父親を紹介されたが、そのままノディーのダッドで間違いない貫録だった。
05年はとても忙しく、7月に2つの高校の遠征チームのコーチングを行い、8月には訪日して、長野県の菅平高原で東海大学ラグビー部のコーチングを任された。
菅平でノディーは体調を崩し、上田市の病院で診察を受け、シドニーに戻ったが・・・
シドニーで医師の診察を受け、元気を取り戻したかに見えた。
そして、10月にはノディーから誘いがあり、翌年の訪日について打ち合わせをした。
ノディーは意欲満々だった。
その一週間後、ノディーの元チームメイトで親友のエディーから朝早く電話があった。
その電話は、ノディーが急逝したという知らせだった。
私は何度もエディーに聞き返したが、いつも陽気なエディーが電話の向こうで泣いていた。
長年ガーデ二ングの会社を営んでいたノディー、彼の身体は皮膚がんに侵されていたようだ。
悲しかった! 私は片腕を奪われたような気持ちだった。
その年の4月に写した結婚式の写真が彼と一緒に写した最後の写真になってしまった。
今その写真を見れば、あの自慢の胸板がすっかり削げ落ちている。
ノディーの身体はボロボロだったに違いない。
グラウンド上のノディーは、いつも世界一のコーチだった。
この季節、土曜の午後3時にABC放送で "シュートシールド・カップ" が生放送される。
それは、シドニー近郊に在する名門クラブ同士の対抗戦であるが、1900年に最初のクラブ選手権が、"SYDNEY FIRST GRADE PREMIERSHIP" として開始された。
1987年にラグビー・ワールドカップが開始されて以降、ラグビー界に商業主義が入り込み、100年以上地元住民に愛され続けたクラブ・ラグビーは衰退の一途を辿っている。
5月25日(土)、私はクラブ選手権「ワリンガVパラマタ」の試合をTV観戦していた。
アナウンサーや解説者が、その試合を「ノディー・ソーテル・トロフィー」と呼んでいる。
なんと、06年から「ワリンガVパラマタ」戦は、「ノディー・ソーテル・トロフィー」と呼ばれるようになったのだ。
ノディーは当初パラマタ・クラブでプレーを開始したが、ワリンガ・クラブに移籍してプレーを継続し、コーチとしても多大な功績を残した。
双方のクラブで協議が行われ、毎年の定期戦をそう呼ぶことに決まったようだ。
ノディーが双方のクラブの誰からも愛され、信頼されていた証であろう。
試合後のインタビューで、敗れたワリンガクラブのキャプテンが、「ノディー・ソーテル・トロフィーを持ち帰れないのが残念だ!」と悔しがったのを聞いて、涙が出てきた。
ロバート・ノディー・ソーテル 享年51歳 私の1歳年上だったが、早過ぎる別れだった。