1998年、この年は私にとって忘れられない年になった。
私にとって、新たな仕事への挑戦となった年であり、それ以降の私や私達家族の生活に大きな影響をもたらすことになった年なのである。
移住から10年目のあの頃、無我夢中だった生活に多少落ち着きが出てきた頃で、長男13歳、次男10歳、息子達の教育の方向性を考える余裕も出てきた頃だった。
私には明確な宗教心は無いが、それでも何かに守られていると思うことがある。
そう言えば、父が他界し、その頃から私の仕事や生活に明確な流れを感じるようになった。
88年12月にシドニーに到着し、先輩が経営する社交クラブで仕事を開始した。
とは言っても、レストランのウェイターやバーのバーテンダー、社長の後輩ということで、マネージャーの見習いもやったが、この仕事は私には向いていなかった。
89年3月にシップチャンドラー(日本船舶に対する食料や土産物の供給)に転職したが、「家族ファースト」を優先しながら、自分の意志や可能性を試す機会を模索する良い機会だった。
92年7月に父が他界し、10月に ”ユーカリ堂”(小規模な日本食料品のコンビニ&喫茶店)を開店し、その翌年の93年に、念願だった永住権を取得することが出来た。
その数カ月後に、私はシップチャンドラーの仕事を辞めた。
ユーカリ堂の仕事、私は裏方の仕事に徹し、店の経営は主に妻とアルバイトに任せた。
縛られる時間が減り、私の関心は息子達が開始したラグビーに一転、それが切っ掛けで「コンタクトスーツ」(ラグビーのトレーニンググッズ)と出会い、日本への普及販売を計画した。
その流れの中で、資金をかき集めて「ユーカリエンタープライズ」(現在の会社)を起業した。
5年後、ユーカリ堂が順調な内に、そのビジネスを人手に売り渡した。
数年の努力で「コンタクトスーツ」の販売が順調に推移し、日本のラグビー界にラグビーグッズとして定着し、その販売だけでも食べていけると私は判断するに至った。
もちろん、それから様々なスッタモンダがあったが、グッズの販売量だけは順調に伸びた。
しかし、97年、NZの製造元は、放漫経営が要因で限りなく破たんに向かっていた。
破綻寸前の98年に「遠征」のオファーがあった。
他人から観れば、転職を重ねる私の状況が四苦八苦のような状態に見えたかもしれない。
「コロコロ仕事を替えて、お前は一体何をやっているんだ!」
身内の兄でさえ、訪日した私にあからさまにそんな言葉を投げ掛けた。
私にしてみれば、それぞれの仕事にはそれなりの根拠があり、タイミングを逸さない決断を重視して前向きだっただけで、そんな評価や心無い言葉は一切気にならなかった。
私はオーストラリアへの移住を決断、それを実行した者であり、その過程を考えれば、日本でやっていたような定年までの生涯雇用などクソくらえだったのだ。
私にとって、積極的に少しでも良い条件の仕事を求めることや自分がエンジョイ出来る仕事を見つけること、逆に生産性の無い仕事に早く見切りをつけるのは当り前のことだった。
オーストラリアの文化や習慣のせいにするつもりは無く、全ては私の意志のままなのだ。
それでも、いつも私には、どこか流れが定められているような感覚や偶然が感じられた。
「豪州遠征のコーディネート」をやってみようと計画したことは一度たりとも無かった。
「コンタクトスーツ」のデモンストレーションのために山口県の大津高校ラグビー部を訪問し、中村監督との偶然の出会いから、遠征の仕事は始まった。
その後、遠征の仕事は15年間続いている。
初心を忘れないために、いつでも手に取れるよう15年間の全ファイルを残している。
15年前の分厚いファイル、当時はカーボンインクのファックスでやり取りをしていたために、文面はほとんど消え掛け、時の流れを感じながらも初心だけは残している。
最初の遠征の仕事も、様々な偶然に助けられた。
1997年6月14日、我家から1kmにあるシドニーフットボールスタジアムで「イングランドVワラビーズ」のテストマッチが開催された。
1999年第4回ラグビーW杯でワラビーズは2度目の優勝を果たすが、それに向けた97年当時、国内はワラビーズ人気が沸騰し、45,000人収容のスタジアムは満席だった。
私はスタジアムで観戦するかどうかを悩み、チケット購入をギリギリまで延ばしていた。
そんな中、大体大の坂田監督から連絡があった。
「NZの帰りにシドニーに寄りますので、お会いしましょう」
これ幸いと、私は急いで「イングランドVワラビーズ」戦のチケットを購入した。
シドニーに到着された坂田監督はそれを喜び、私達は連れ添ってスタジアムを訪れた。
45,000のシートが、すでに8割がた埋まっていた。
「坂田先生!」
なんと、私の隣のシートに座っていたのは日本人だった。
「あッ!福田さん!」
私は初めて出逢う人だったが、坂田先生とは旧知の知り合いのようだった。
私とは互いに自己紹介となったが、その人はカンタス航空名古屋支店長だった。
カンタス航空名古屋支店は関西ラグビーフットボール協会との信頼関係を築いていたようだ。
シドニーのカンタス航空本社で行われた重要な会議を終え、日本への帰国前にこのテストマッチ観戦を楽しもうとしていたそうで、本社にチケットの手配を依頼していたそうだ。
メジャーなラグビー経歴を持つ人ではないが、ラグビーへの情熱には熱いものがあり、とりわけワラビーズに対する思い入れは尋常ではなかった。
それもあって、私は意気投合した。
この45,000分の1の偶然が、私の将来に大きな影響を与えることになる。
当時カンタス航空は福岡-シドニーの直行便を就航しており、山口県長門市に在する大津高校のフライトを任せることになった。
名古屋の前職は福岡支店長だった福田さんは、まるでオージーのようにフレンドリーだった。
その後、福田さんはカンタス航空日本支社のマーケティング本部長、営業本部長の要職に就かれるが、退職されるまで様々なサポートやアドバイスをしてくれた。
福田さんが退職されてからも、彼の部下だった人達に世話になっている。
1999年だった。
福田さんから連絡があった。
「加藤さん、オーストラリアにはラグビーの素晴らしいコーチングコースがあるんだってね?」
カンタス航空本社の会議で話題になったそうだ。
コーチングコースは、ラグビーのコーチングに限った内容ではなく、企業経営や人の人生や生活にまで影響を与えるようなコースらしいということだった。
ラグビー王国オーストラリア、そのスピリットを掲げるカンタス航空本社にもラグビーを志す者は多く、プレーする者もしない者も、特に幹部クラスの多くがコーチングコースに参加し、資格を取得、それを部下や後身にも薦め、引き継いでいるということだった。
シドニー出張中だった福田さんと私は、そのコースに実際に参加することになった。
そのコースに参加したことが、私を感動の渦に巻き込み、この内容やシステムを日本に伝えたい! 伝えなければならない!と決意させることになるのだ。
女性の参加が多かったことやNZやイングランドからの参加者が多かったことは驚きだったが、多くの企業関係者が参加していたことは福田さんから聞いた通りだった。
ARU(オーストラリア・ラグビー協会)に交渉を重ね、私は2001年から日本人向けに「オーストラリア・コーチングコース」の開催を実現し、今も続けている。
このコース開催がラグビー関係者(コーチ)との出逢いを劇的に増やし、それに伴って互いの信頼関係が構築され、遠征チームの数も確実に増えていった。
福田さんとの関係もどんどん深まっていった。
遠征のフライトはもちろん、コーチングコースにはARUスタッフ(コーチ教育セクション)の協力が不可欠であり、そのフライトに関しても快くサポートを引き受けてくれた。
私は、このコースを「カンタス・オーストラリア・コーチングコース」と名付けた。
時代は流れ、どのような情報もクリック一つで得られるようになったが、様々な偶然が人と人とを結びつけ、コツコツと積み上げた手作りの信頼関係が私を導いてくれた。