あれは何だ !? 5 | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

ちくしょう!ブレンダンめ、俺は絶対に許さねぇぞ! 

そう思ったものの、どうすれば良いのか皆目見当がつかなかった。

誰がどう冷静に考えたって、世界のM社と俺達を比べりゃあ、M社を選ぶはずだ!

それでも、私達には正式な「契約書」があるんだ!

私は早急に契約時に間を取り持ってくれたオーストラリア側の弁護士に相談をした。

長男のラグビー仲間の父親だったミラー弁護士も、自身が関わった契約に対するNZ側のブレイスウェル社長の理不尽さを不快に感じたようで、親身になってくれた。

しかし、オーストラリアとニュージーランドの2国間を挟んだ訴訟は簡単ではないようだった。

先方も弁護士を立て、結局弁護士同士のやり取りになり、まずは契約書を基に訴訟の書類を作成し、電話やファックスで何度もやり取りをしてくれたようだ。 

ただ、最初の一連のやり取りだけで数千ドルの支払いをしなければならなかった。

 

ミラー弁護士は、友達として私にプライベートの立場で本音を話してくれた。 

正式な契約がある以上、裁判をして勝つことは間違いないが、結審までにかなりの時間が掛かること、その間に10万ドル以上の経費が必要になること、それと、例え裁判に勝ったとしても、先方に支払う意思や能力が無ければ、更に時間と費用が必要になり、もし先方が破綻するようなことになれば、全ての努力が無駄になることなどを率直に私に話してくれた。

私はミラー弁護士のアドバイスに従い、訴訟を諦めることにした。

「いつでも訴える準備がある」というウォーニング(警告)だけは先方に強く伝えてもらった。

 

当時、どうしても前向きに事態を考えることは出来なかった。

荒れ地を耕すように、この2年間で日本全国を訪ね、種を蒔き、水や肥料をやり、やっと芽が出て、順調に成長していたところへ突然大きな台風がやって来たようなものだった。

 

もちろんM社に対する憤りもあったが、まさにそれは日本経済が連綿と連ねてきた歴史であり、これが現実なのだと思うしか無かった。

個人の草の根の努力は、その採算が見込めるようになると大きな資本に土足で踏み荒らされて、結局は飲み込まれてしまうのかもしれなかった。

私は、日本ではそんな歴史が繰り返されてきたのだと思うしかなかった。

個人の努力の限界や自分の無力さを感じ、私は重々しく沈んだ気持ちから抜け出せなかった。

今回だけは万事休す、解決するための妙案すら思い浮かばなかった。

契約書がある以上、商品の入荷には問題が無い。

それなら今まで通り普通に努力していく以外に無いだろうと半ば諦めの方向に動きつつあった。

幾ら私達が正しいと分かっていても、本気でM社に対抗すれば、敵は余りに巨大で、大きな資本に押しつぶされてしまうのは間違いないと私は考えるしかなかった。

それでも、私の怒りが治まることは無かったのだ。

 

草の根のコーチングで日本全国を訪ねたことで、私には多くの友人が出来たし、時と共に、徐々に私を理解してくれる人達が日本中に増えていた。

 

その一人に、大坂体育大学ラグビー部を長年指導された坂田監督(教授)がいる。

海外に飛出し、無我夢中で努力した共通の体験が、私達を結び付けてくれた。

伝説と言っても過言ではない "ラグビーレジェンド" である坂田教授は、ラグビー発展のために長年努力された人だが、私の活動に対しても目や耳を傾け、純粋に評価してくれた。

私は訪日中に何度も大学を訪ね、菅平の合宿にも参加して、コーチングのサポートもした。

そんな中で、坂田監督に私の危機的状況について相談する機会があった。

 

年が明け1998年になったが、坂田監督から連絡があった。

大阪に本社を持つM社と坂田監督の大学、またM社幹部と坂田監督との関係は太く、坂田監督はM社のトップに今回の一連の状況について話す機会を持ったと連絡をくれた。

「一生懸命コツコツと日本のラグビーの発展のために努力している人の権利を、御社は平気で侵害するのですか !?、それは御社が目指す ”スポーツによる健康で明るい社会” に反するのではありませんか!」と、坂田監督はM社の幹部に訴えてくれた。

坂田監督の言葉は、私が声を大にして叫びたかったことだった。

 

M社に於けるラグビー部門はほんの小さなセクションであり、その細かい事情までがトップまで伝わることは奇跡のようなものだが、この件はトップの知るところとなった。

程無くして、M社のNZを担当する社員から私への謝罪の連絡があった。

更にその社員から、「コンタクトスーツを御社から仕入れたい」という申し入れがあった。

なんと、世界のM社とちっぽけな私の会社との間にアカウントが出来たのだ。

ブレイスウェル社長ではないが、それは正に "Good as Gold !" であり、凄いことだった。

言ってみれば、 ”瓢箪から駒” だった。

昨日までの怒りや不安な気持ちが一気に晴れる思いだった。

 

早速、M社からロゴやサイズ別の寸法、色などのスペックが送られて来た。

大企業の専門的なやり方に緊張感や戸惑いはあったが、恰好を着けたところで直ぐに化けの皮が剥がれると思い、分からない部分を正直に分からないと返事をした。

 

目論見が狂って慌てたのはNZの製造元のブレイスウェル社長だった。

何の謝罪も無かったし、私は彼だけは絶対に許す気にはなれなかった。

1998年3月には、私の会社の販売数が2,500着に達していたが、M社は半年経っても直接仕入れた500着が消化出来ず、そのほとんどが在庫として残っている状態だったようだ。

M社の営業(ラグビー部門)には使い方を説明しながら販売する余裕など無く、また、担当者やセールスには学ぼうとする意欲も教えようとする意欲などあるはずも無いのだ。

企業名だけで物が売れることから、セールスが一商品に何らかの気概など持つはずもなかった。

 

M社が販売したチームを訪ねたことがあった。

コーチが選手にコンタクトスーツを着せ、動かず棒立ちの選手にタックルを入らせている。

そのコーチが選手にやらせたタックル練習とは、タックルマシーンの代わりにコンタクトスーツを着けた棒立ちの選手を立たせただけだった。

そんな練習やコーチングにコーチも選手も何の違和感も感じていなかったのだ。

コンタクトスーツは、試合と同じ状況で動きながらタックルさせてこそ意味があるのだ。

 

何事も無かったようにブレイスウェル社長は私に連絡をして来た。

そして、ノー天気なことを話し始めた。

昨年末、タウランガ市の高額納税者でトップ10に入ったこと、自宅を新築してクルーザーを買ったこと、オールブラックスからコーチングする機会をもらったこと・・・

相変わらず「グッド アズ ゴールド」を繰り返したが、私の心は完全に彼から離れていた。

 

私は彼の自画自賛に対し何も言わなかったが、心の中でつぶやいた。

「誰のお陰でそうなれたと思ってるんだ!」

「馬鹿野郎!俺がどれだけ無駄な時間や弁護士費用を費やしたと思ってるんだ!」

「この半年間の慰謝料を払えよ!クソ野郎」

そして、私が結論として考えたことは「一度裏切った者は必ず繰り返す!」だった。

この経験は私に色々なことを教えてくれた。

 

その後、ブレイスウェル社長はオーストラリアを開拓するための動きを開始した。

私が当初日本向けに考えたように、ブレイスウェル社長自身、ラグビー強豪国のNZやオーストラリアなら黙っていても売れるに違いないと考えたようだ。

地元のNZは、自分がデモンストレーションを行うことである程度の売り上げがあったようだが、オーストラリアはそんな簡単では無かったのだ。

 

もちろん私はそれに関わるつもりは無かった。

オーストラリアを担当していたはずのゲイリーはすでにその仕事を辞めていた。

素性の知れない見るからにマナーの悪い男が「オーストラリアを任された」と言って連絡をしてきたが、私は関わりを持つ気にはなれず適当にあしらった。

ただ、ブレイスウェル社長から聞いたシドニーでのデモンストレーションには顔を出した。

セッションはシドニー大学のセント・ジョーンズ・オバールで行われたが、グラウンドにはオーストラリアを代表するコーチがたくさん集まっていた。

当時ARU(オーストラリア・ラグビー協会)のコーチングを仕切っていたアンソニー・エディー氏を中心に、ほとんどのクラブの1軍コーチが集まっていた。

 

内容は確かなもので、私には新たに学ぶべきものがたくさんあった。

参加していたオーストラリアのコーチ達のほとんどが良い評価をブレイスウェル社長に述べ、翌日のセッションにも必ず参加すると言い残し、三々五々散って行った。

「どうだ、俺は凄いだろう!」

そうとでも言わんばかりに、ブレイスウェル社長がセッションの大成功に舞い上がっているのが手に取るように分かった。

もうそこには、以前の田舎者丸出しの真面目で素朴な社長の姿はなかった。

私は話をする気にもなれず、明日も参加するよと言い残して、その場を去った。

 

翌朝早く、NZに居るブレイスウェル社長の奥さんから電話があった。

「昨晩、ブレンダンが交通事故に遭ったみたいなの!どうしたらよいか分からなくて・・・」

それはまるで泣き叫ぶような声だった。

シドニー大学の敷地内にある古いロイヤル・プリンス・アルフレッド病院に救急車で搬送されたらしいと彼女は泣きながら私に訴えた。

 

私は慌てて病院に向かったが、エマージェンシー(救急)・セクションでカーテン越しに並んだ患者を一人一人確認して行ったが、その何番目かに彼は横たえていた。

まだ顔は血だらけで、あちこちに縫合した糸が見えた。

ブレイスウェル社長の突然の事態にはビックリだったが・・・

夜中に事故に遭った者への応急処置を初めて目の当たりにした私は、オーストラリアの病院ではこんな対応をするんだ !? と正直驚きで、患者が戦争中の野戦病院のように並ばされていた。

ブレイスウェル社長の顔を見れば、事故のすさまじさが伝わって来るようだった。

たぶん、泥酔した彼は処置の最中も暴れたに違いなかった。

私に気付いた彼は笑おうとしたが、歯がすべて無くなっていた。

看護師の話では、これからまだ様々な検査があるということだった。

 

予想した通り、酔っぱらい運転が原因だったようだ。

オーストラリアを任されたと言ったあの胡散臭い男の運転、ブレイスウェル社長は助手席に乗っていたそうで、猛スピードで街路樹に突っ込んだらしい。

顔や歯が1本も残っていないのを見れば、泥酔してシートベルトもしていなかったのだろう。

3日間病院を見舞ったが、本人の希望で、彼は3日後にベッドのままNZに移送された。

 

私の元には今も当時の販売リストがすべて残っている。

オーストラリアから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1995年に販売を開始して、約6年間で販売先の数は466、約5,000着のコンタクトスーツを販売することができたが、その中にM社への販売数は含まれていない。

残念ながら販売は伸びなかったが、それは私が予想した通りだった。

この時にできた個人やチームとの縁、そのほとんどが今も続いているのは実に幸せなことだ。

 

つづく