あれは何だ !? 3 | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

コンタクトスーツの注文は相変わらずウンともスンとも反応が無かった。

それでも、ユーカリ堂は順調であり、日銭が入るため、それだけが救いだった。

ただ、500着の在庫は重くのしかかり、私にとってそのような状況は大きなストレスだった。

 

日本を飛出した私が、日本を相手に商売を始めた訳だが、この試練は起こるべくして起こった訳で、それは私の商売に対する考えの甘さ以外の何物でもない。

500着が在庫になっていても、完全に支払いを済ませているのだから、まあ、いずれなんとかなるだろうと表面上は気楽に構えているふりをしていた。

まだ負けた訳じゃない、何とかするぞ!という心は萎えていなかった。

 

経済的な面を考えれば、息子達が幼かったことがラッキーだった。

当時、2人は公立のプライマリースクール(小学校)に通っていたが、公立のスクールは、オーストラリア国民はもちろん、永住者の子供に対しても無料だったのだ。

授業が終わると近くのケアセンターに通い、同じ境遇の子供達と夕方まで学校以外の教育(スポーツや絵画工作、音楽他)を楽しむこともできた。

私や妻にとって何より嬉しかったのは、英語に慣れ、たくさんの友達が出来たことだった。

オーストラリアの教育制度やその環境は、仕事を持つ親達にとって実に大きな助けだった。

教育の質やレベルを悩んだことは無かったし、教育に関する大きな出費はほとんど無かった。

週末は息子達のラグビーやスポーツが我家のレジャーの中心だったため、思いっきり息子二人をそれぞれ応援出来たし、私や妻もストレスを発散し、その上で節約も出来た。

 

私は40歳だったが、その年代で日本で暮らしていたら、一体どれだけ冠婚葬祭やゴルフ、ラグビー、日々の付き合いに出費したことだろう?

そう考えれば、ちょっとは気持ちが楽になった。

正直、あの時期を乗り越えられた要因は、経済的な面と息子二人がオーストラリアの少年として育つ環境に溶け込めたことが、何と言っても一番大きいことだった。

それと忘れてならないのは、妻の協力と私を信じる姿勢で、一向に一切オーダーの無い状況でも、妻は私に一言も不満を漏らすことはなかった。

ユーカリ堂の切り盛りは妻に任せていたが、私は何も心配することは無かった。

 

もう一人、私のパートナー 斎藤の献身的なサポートには感謝するばかりである。

彼が居なければ、私の仕事は何一つ成り立たなかった。

 

私はあの日を忘れない。 

1996年6月15日、東海大学から問い合わせがあった。

購入希望だが、まずは使い方の説明を受け、コーチ陣が納得することが購入の条件だった。

東海大学でのコーチングはコンタクトスーツの大きな試金石になるはずだと私は考えた。

NZの製造元にも連絡をし、ブレイスウェル社長が日本に帯同してくれることになった。

まだ無名だったエディー・ジョーンズ(現ラグビー日本代表監督)が東海大学を指導していた。

「購入するかしないかは、あなた方のコーチングを受けてからね!」

なるほど、それはエディーらしい判断であり言い分だった。

 

私は以前、シドニーのランドウィック・クラブでエディーと話したことがあった。

確か、東海大学のオーストラリア遠征の際に、袋舘監督とエディーの友情からランドウィッククラブがホストクラブとなり、その縁から東海大学のコーチを任されたようだ。

 

さて、エディーはブレイスウェル社長のコーチングを率直に評価した。

あの頃、あのエディーが、将来ワラビーズ(オーストラリア代表)の監督となり、大活躍するとは誰も考えてはいなかったが、私はエディーたる所以とも言えるオーラを感じた。

彼の鋭い目付きや人を見透かすような口調はあの頃から健在だった。

そして、率直に良いものを良いと見抜く眼力のようなものも私はエディーに感じた。

 

東海大が15着買ってくれたことは涙が出るほど嬉しかった。

ただ、それにも益して、私はブレイスウェル社長のコーチとしてのプロ意識や自ら手掛けた製品に対する愛情のようなものを感じ、それを率直に感動した。

彼のコーチング内容はコンタクトスーツの機能を最大限に活かすものばかりだった。

そしてそれは、当時最も進んだコーチングだったに違いない。

彼を連れて訪日した私が、NZのタウランガという田舎町に住むブレイスウェル社長にオールブラックの国ニュージーランドを感じた瞬間だった。

よれよれのスーツにジッパーの壊れたバッグを下げてシドニーに降り立ったNZの田舎のオッサン、そんな私のイメージが、グラウンドでの輝きから一変してしまった。

 

何を隠そう、彼はクリケットのNZ代表だったのだ。

当時、私はオーストラリアやNZでクリケット代表がどれだけの存在かを知らなかったが、双方の国で、ラグビー以上に一般から尊敬され、人気があるのをこの機会に知った。

クリケット好きのエディー・ジョーンズは、ブレンダン・ブレイスウェルをNZのクリケット代表としてよく知っていたのが私には大きな驚きだった。

彼はクリケットNZ代表として27回のテストマッチに出場したレジェンドだったのだ。

画して、日本でのブレイスウェル社長とのキャンペーンは大成功に終わった。

ラグビーマガジンに広告を載せ、成行き次第で注文を待つ私の姿勢が情けなく恥ずかしかった。

その時、私は確信したのだ。

そうだ、私自身が、1チーム1チームに使い方の指導をしながら販売してみよう!

そのためには私自身がコンタクトスーツのエキスパートにならなければ無理だ!とも思った。

 

シドニーに戻った私は、可能な限りラグビークラブのトレーニングに出掛け、コンタクトスーツを使ったトレーニング法について学び、自分なりのアイデアの構築を開始した。

クラブのスタッフに許可を得て写真撮影もした。

そんな努力を重ねることから、オーストラリアのラグビー界に多くの人脈が出来、彼らからたくさんの情報も得られるようになった。

ワープロと手書きのイラストでトレーニング法を詳しく図解し、細かい部分を忘れないように、図解した用紙にビッシリ思うがままに様々なコメントを書き入れた。

もちろん、ブレイスウェル社長のアイデアやそのトレーニング法も同様に図解した。

 

それでもまだ、一番肝心な問題が残っていた。

それは、コーチングを実施する日本のチームをどう探すかだった。

ニュージーランドを視察に訪れた時に、ブレイスウェル社長は直接トレーニングに押掛け、自分でコーチングの機会を作っていたが、それは余りにNZ的な発想と言うか手法に思えた。

もちろん、それも選択肢として考えたが、日本のスポーツ界はNZのような訳にはいかない!

日本の文化や習慣から考えれば、根回しが無ければ何も出来ないことを私は知っていた。

 

私はダイレクトメールを日本中のラグビーチームに送ることを考えた。

新しいパンフレットを作成し、そのパンフレットの目立つ箇所に一言書き入れた。

一着でもご購入頂きましたチームには使い方のコーチングに伺います」

FAX用の注文書も作成し、そこに「コーチング要/不要」の欄を作った。

先般のサンケイスポーツの記事やオーストラリアの新聞記事も集めて、同封することにした。
オーストラリアから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3地域(関東、関西、九州)ラグビー協会のチーム登録名簿を手に入れ、当時、ラグビーマガジンに掲載されていた試合結果等と照らし合わせながら、まずは強豪と思われるチームを選んで3,000通のダイレクトメールをシドニーから国際郵便で送った。

当時、封筒の宛名書きは手書きだったが、妻が文句も言わずその作業を担ってくれた。

 

結果、それから数日後に、注文書のFAXが、1チーム、2チーム・・・ と戻って来た。

そして、そのほとんどの注文書には "コーチング要" に丸印がつけられていた。

 

それから私のコーチングの旅(3ヶ月に及ぶ日本滞在)が始まった。

大きなリュックにコンタクトスーツ8着を詰め込み、運動着/運動靴のまま動いたが、口コミでその噂がどんどん広がり、日本での活動中にも妻から連絡があり、訪問先が増えた。

北海道(函館、北見、網走、中標津他)から鹿児島県鹿屋市まで、ほぼ全県を訪問した。

 

こんなことがあった。

岡山県の県北の高校から1着の注文があり、コーチング要と書かれていた。

山間に在る高校だったが、2時間近くバスに揺られ、放課後に訪ねた。

8名の選手達と顧問兼監督の先生1名が私の到着を待っていた。

監督は化学の先生だという、熱心だったがラグビーを経験したことは無さそうだった。

 

約2時間、8着のコンタクトスーツをフルに使い選手達は活き活きとトレーニングを行った。

「これで全員なんです。部の予算はボールを買ったらそれで終わってしまうほどなので」

私には監督が何を言わんとしているかが理解出来た。

私の方から「先生、気にしないで下さい。選手達の一生懸命さが私に元気をくれましたし、このようなトレーニング法を更に進めて下さい」と言い残し、私はグラウンドを離れようとした。

監督と選手全員がバス停まで送ってくれたが、その道すがら監督が私に言った。

「私の家に2着送って下さい。請求は私にして下さい」

夕暮れの中、私はバスに乗り込み、最後尾に座った。

バスの窓から、監督や選手達がずっと手を振ってくれているのが見えた。

山の陽の入りは早く、ポツン、ポツンと山間に家の光を見ながら、なぜか涙が溢れてきた。

 

つづく