1995年、3年前に長男がラグビーを開始し、次男もこの年から開始した。
毎週火曜の夜、二人の送迎のために私も「イースタンサバーブズ」のグラウンドに居た。
イースタンサバーブズは我家から車で5分、100年の歴史を持つ名門クラブなのだ。
息子達ジュニアのトレーニングの開始は夕方の5時からだった。
その後の6時から開始されるシニアのトレーニングを観るのも私の密かな楽しみだった。
当時、ワラビーズ(オーストラリア代表)の選手もクラブのトレーニングに参加しており、世界のトッププレーヤーのプレーを目の当たりにできるのは、ある意味で特権だった。
ジュニアのトレーニングが始まる30分前にグラウンドに着くと、当時ワラビーズのゴールキッカーだったスコット・ボーエンが必ずゴールキックの練習を繰り返していた。
息子や少年達がボール拾いを手伝い、当時はキックティーが無く、砂を運ぶ少年もいる。
スコティは、その都度、フレンドリーに笑顔で ”サンキュー” と礼を言う。
あのワラビーズ選手の立ち振る舞いを見ながら、これが文化なんだなぁと思えたものだ。
いつの間にか、長男がスコティの蹴る前の仕草から蹴るまでの何もかもを真似るようになった。
なるほど、こうやってスポーツ文化が引き継がれていくのだなぁと感心するばかりだった。
そんなある日、私はシニアの選手達が今までに見たことも無い奇妙なグッズを身に着けてトレーニングを行っているのを目撃した。
もちろん、そのようなグッズを日本で目にしたことは無かったし、私自身使った覚えは無い。
「あれは何だ !?」
「コンタクトスーツ」 ”Contact Suit”
そのグッズはそう呼ばれていた。
なるほど、このグッズを使えばコンタクトの際の痛みが軽減され、トレーニング中に試合と同じような状況でコンタクト(タックルなどの接触)を含めたトレーニングが可能なる。
なんて画期的なアイデアなのだ!
ラグビーの醍醐味はタックルと言われるが、それをトレーニング中に本気で行えば、タックルをする選手側もされる選手側も身体へのダメージの危険性に晒される。
それがこのグッズを使えば解消出来るのだ!
「ラグビーの発展のために革命的グッズだ!」
私は咄嗟にそう思った。
それと、私はある確信を持った。
「新しもの好きの日本人に絶対に売れる!」
当時の日本ラグビー界は、オーストラリアやニュージーランドに格段の信頼を寄せていた。
思い立ったら、即断即決症候群!
また、私の病気が始まった。
クラブ関係者から販売元を聞き出し、製造元や販売元がニュージーランドの北島東部のタウランガにある会社で、まだ売り出されて間もないことも知らされた。
当時、オーストラリアにはまだ販売代理店は無く、ゲイリーという男(サザンディストリクト・ラグビークラブのコーチ)がオーストラリアの販売を任されていると聞いた。
私は、早速ゲイリーに会うため、アポイントを取った。
私は私なりの戦略を考えた。
まず大切なことは日本への独占販売権を得ることだ。
それには、いかに日本でラグビーが盛んに行われているかを説明しなければならない。
オーストラリアやニュージーランドに比べれば、日本はまだまだラグビーの後進国、彼らは日本でラグビーがどれほど盛んに行われてるかを知らないに違いない。
今でこそインターネットを操れば、日本のラグビー人口やチーム数は簡単に検索出来る。
当時、オーストラリアに住む私には何一つ明確な情報は無かったし、それに関心も無かった。
それでも、多少ピークは過ぎていたものの早明戦には6万人の観客が集まっていたし、高校の全国大会(花園)は規模が大きくなり、予選参加校数はピークに達していた頃だった。
ラグビーマガジンを日本から定期的に取り寄せていたため、ある程度の情報は理解していたが、高校の県別予選のトーナメント表を見れば、容易に参加チーム数や競技人口は想像出来た。
私は、もし最初に舐(な)められたらオシマイだと思った。
私の戦略は、とにかく、日本ラグビー界の情報と資金力を先方に示すことだった。
情報武装のために、まずワープロを使って ”日本ラグビー界の現在と将来” について資料を作成し、そして、現金2万ドル(当時の為替レートで約250万円)を用意した。
ゲイリーとの約束の日、私は緊張していたが、彼は気の良い普通のオージーだった。
資料を渡したが、案の定ゲイリーは日本のラグビー事情をその時初めて知ったようだった。
よし!これなら行けると思った。
私自身が早明戦に出場し、5万5千人の観客を前にプレーしたラグビーマガジンの写真を見せ、私には日本のラグビー界に人脈が多く、顔が利くことを強調しようとした。
ゲイリーは日本がマーケットとして可能性を秘めていることを認めたが、それでも、どこの馬の骨かも分からない私を完璧に信用していないのは顔や言葉で理解できた。
私がボンダイジャンクションのカフェのオーナーであることを話し、資金的には問題がないのを理解させ、何とか契約を決断させようとした。
「日本の幾つかの企業から連絡が来ているが、まだ決めかねているところなんだ」
彼は私の足元を見るように、駆け引きするような言葉を発した。
「何ていう会社が来ているんだい?」
私がすかさずゲイリーに尋ねると、ニュージーランド側からそう聞いていると明確な返事をせずに、適当に話をはぐらかそうとした。
私にはゲイリーの意図が読めた。
オーストラリアでさえ、そのグッズの活用は一般的では無かったし、ラグビーグッズを扱う日本企業がすでに交渉に来ているとは到底思えなかった。
ゲイリーの顔色を窺いながら、私はおもむろに2万ドルの現金をテーブルの上に置いた。
「まずは、これで売ってくれないか?」
ゲイリーは「まさか !?」という顔をした。
そして直ぐに携帯電話でニュージーランドの製造元の社長に電話をした。
当時のオーストラリアの平均年収は3~4万ドルだった。
NZはもっと低いはずだ。
私の予想通り、そのインパクトは完璧であり、それで話は決まった。
ゲイリーの電話で、2週間後にニュージーランドの社長がシドニーを訪れ、正式に弁護士を入れて契約をするという段取りが決定した。
私はニュージーランド~シドニー間の往復航空券、滞在ホテル、食事を私が持つと申し出た。
航空券はファーストクラス、ホテルは当時最高級と言われたANAホテル(現在のシャングリラホテル)、部屋はハーバービューのスウィートルームを用意した。
夕食はダブルベイという高級住宅街の鉄板焼きレストランを予約した。
どんな凄い奴が来るのかと不安に思いながら、私はシドニー空港で社長の到着を待った。
体躯堂々、社長のブレンダン・ブレイスウェルが私の前に現れた。
見るからに安物の背広に、カバンはチャックが閉まらず中の書類が見えたままで、どこかの田舎からやって来た ”人の良さそうなニュージーランド人” というのが第一印象だった。
ニュージーランド独特のなまりで、こちらが何か言えば、必ず口癖の「グッド アズ ゴールド!(金のように素晴らしいよ)」を何度も繰り返すオッサンだった。
翌日、長男のラグビー仲間の父親(弁護士)に正式に依頼して、契約は無事に済んだ。
つづく