新宿ゴールデン街と呼ばれる街(新宿花園町、元青線地帯)。
昭和50年にこの街を中心にして2つのラグビーチームが誕生した。
そのチームが今も存続するかどうかは分からない。
彼らは徹夜で飲んで、二日酔いのまま、路上で着替え、花園神社の境内で練習に励んだそうだ。
私の高校時代は、ラグビーと野坂昭如氏の本と共にあった。
彼の奇抜な発想は今も私に大きな影響を与えている。
最初の出逢いは、地下足袋にゲートルを巻いた土方のオッサン達が痛快に騒動を起こし、最後は東大安田講堂に立て籠もる「騒動師たち」だった。
デスマスクを商売にした「とむらい師たち」は、まさに「おくりびと」の原型のような作品だ。
彼の作家としてのデビュー作「エロ事師たち」も面白かった。
「真夜中のマリア」を読んだ時、主人公の持つフルートが本気で欲しくなった。
そして直木賞に輝いた「アメリカひじき/火垂るの墓」にも出会うことになる。
私は「火垂るの墓」を高校の読書感想文の題材にした。
野坂昭如氏は、自ら ”焼け跡闇市派” を名乗ったが、あの当時の彼は私のヒーローだった。
「火垂るの墓」はジブリのアニメ映画となり脚光を浴びたが、主人公の ”せいた” と同じ年頃だった妻の父親が我家を訪れた時にDVDを観て、大泣きしたのは驚きだった。
確かに、私も本を読んで涙が出たのはあの作品が初めてで最後だった。
そんな野坂昭如氏がラグビーチーム「アドリブクラブ」を組織する。
彼の作品を読めば分かるが、それは美味い酒を飲むためだったに違いない。
その当時、私は早大ラグビー部を目指していた頃だったが、幸いにも入部出来た新入生の頃には、よくアドリブクラブが東伏見のグラウンドに試合をやっていた。
もしかすると、相手は新宿ゴールデン街を中心に活動するチームだったのかもしれない。
きっと、試合が終われば、彼らは揃ってゴールデン街に繰り出し、飲み明かしたのだろう。
私は、大学に進学してからも、彼の新作が発表される度に読み続けていた。
東伏見グラウンドでアドリブクラブが試合をする際には、新宿ゴールデン街の常連だったという直木賞作家の田中小実昌氏が必ず顔を出していた。
憧れだった野坂昭如氏や田中小実昌氏が目の前にいるのが私には信じられなかった。
「野坂さんの作品が大好きで、全部読みました」
新入生の私はそう言って彼の前でペコリと頭を下げたことがあった。
彼は無表情のまま独特の口調で何か言ったが、私はその内容を一切記憶していない。
隣にいた田中小実昌氏が目をクリクリさせながら人懐こく笑っていたのは覚えている。
私はあの時代を代表するような作家2人を前にきっと緊張していたに違いなかった。
それより何より、入部仕立ての私には東伏見のグラウンドで誰かと会話する余裕など無かった。
彼らの傍には、いつも当時4年生だったアニマル藤原さん達が寄り添っていたのだ。
今思えば、「もし、あの時話せていたら」 と思うことがある。
「ラグビー部にも、君のような選手がいたんだ?」 と不思議に思ってくれたかもしれない。
ただ、意外かもしれないが、当時、早大ラグビー部の先輩や後輩には文学好きが多かった。
当時は地方の公立、名門高校出身者が多く、「文学を語らせたらあいつの右に出る者はいない」というほど博学な先輩もいた。
映画の世界に生きた石丸泰規氏がゴールデン街のラグビーチームのことを雑誌に書いている。
表題は「酒の肴がほんものになった」である。
「最初は、酒の肴にラグビーの話をしている程度だったが、いつの間にかそれがほんものになった」、「映画のセットのようなゴチャゴチャした路地のどこからか、迷い込んだようにふわりと十数人の男が現れ、どんより濁った空気を蹴散らすようにやおら走りだし・・・」
何とも、昭和の良き時代を思わせる文章である。
私は「あの頃のラグビーは良かった」と言う世代ではなく、深く語るつもりも無いが・・・
ただ、その情景は浮かんでくるような気がする。
1年前に日本で弁護士と打ち合わせをした際に、昨年、NZで開催されたラグビーW杯のネクタイを土産として渡したが、彼はそのネクタイをとても喜んだ。
しばし、ラグビーの話題で盛り上がり、彼がこんな話をした。
「その昔、私は作家の野坂昭如さんとラグビーをしていたことがあるんです」
「え!、それは、アドリブクラブですね!」
「はい、ラグビーをして、それを肴によく野坂さんと飲み歩きました」
飲み歩いた場所を聞かなかったが、きっと、新宿ゴールデン街か新宿西口周辺だったのだろう。
その後、案件をそっちのけで話し込んでしまった。