シドニーへの移住 2 移住までの道のり | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

ニュージーランド遠征から日本に戻ってから半年が経っていた。

7月に長男が誕生した。

息子の誕生を機に、南半球での子育ての夢は更に大きなものになっていた。

ただ、現実はその夢とはかけ離れ、仕事や第一子誕生のバタバタに追われる日々だった。 

 

それでも、ニュージーランドの名を見つければ即反応し、何らかの可能性を求め、必要とあらば出掛けて行くことを繰り返し、せっせと手紙も書いた。

私の故郷である宇都宮市はNZのオークランド市近郊のマヌカウ市と姉妹都市だが、NZ側の職員を募集していないか?と確認し、それが無いと知れば、その交流を深めるために私を職員として派遣してはどうか? そんな風にズケズケと自分を売り込んだが、あっさり却下された。

それは、あまりに当然で、私は誰かを頼って人任せな移住を考えていたのかもしれない。

 

それでも、手あたり次第可能性を見出そうとしながら、手掛かりとなる何かを探していた。

早大ラグビー部のOB名簿を確認したところ、その中にオーストラリアのシドニー在住者で、「オーストラリア・ニュージーランド・日本クラブ」経営と書かれている先輩がいた。

私は昭和55年卒だったが、先輩は昭和40年卒、年齢は40代後半の大先輩だった。

当然交流は無く、その先輩と親しい先輩も探せば見つかったと思うが、探す気はなかった。

私は思い切って、名簿に書かれたシドニーの住所に手紙を送った。 

突然、その大先輩から電話が掛かって来た。

「手紙ありがとう、ただ、君の言いたいことが分からないんだが、何がしたいんだい」

初めての国際電話、シドニーから掛かって来たその第一声を私は今も忘れない。

 

電話が掛かって来るのを予想していなかった私は、何の言葉も準備していなかった。

仕方なく、ニュージーランド訪問時に得た感動や沸き上がった憧れを並べたが、では、具体的にどうしたいのか? はウヤムヤなまま、結局何も話せなかった。

 

大先輩はそんな私のあいまいな姿勢を完全に見抜き、その対応にはどこか余裕が感じられた。

「ニュージーランドと書いてるけど、ニュージーランドに行きたいの?」

「はい、OB名簿にニュージーランドと書かれていましたので、ご相談出来るかと思いまして」

「あんなNZのような貧乏な国じゃ、暮らしてはいけないよ! ヒツジでも飼うのかい?」

そう言って、大先輩は笑った。

私のドギマギした対応から、電話の向こうで全てが見透かされているのが理解できた。

「英語はできるの?」

「生活していくだけの金銭的な余裕はあるの?」

「家族は?」

優しさのようなものは一切感じられず、よくテレビで見る警察の尋問のように思えたほどだ。

それでも、かつてカナダのツアーガイド木下さんから届いた手紙を思い出した。

海外で暮らす人達の言葉には、期待を持たすようなオベンチャラはないのだと感じていた。

 

「よし、そんな状況で女房と子供を連れて来ようとする根性だけは気に入ったよ!」

大先輩の言葉が、突然思わぬ方向に傾いた。

「1週間以内に航空券を買って、まずはシドニーまで来なさい!」

私は耳を疑ったが、私の本気度を試すためには十分過ぎるほど明解で厳しい言葉だった。

「シドニーに住めば、ニュージーランドに行きたければ、いつでも行けるよ!」

大先輩は、そう言い切った。

さあ、どうしよう !?

 

半年前、ニュージーランド遠征の際に有休を使い果たしてしまった。

週末を入れるにしても最低5日間の休みを会社に申し出ることは難しかった。

身内の葬儀と言えば会社から香典や花が届いてしまう。

家族が病気と言っても長期間休むのは無理、私自身が病気になるのは? どう考えても見るからに健康過ぎてそれも無理・・・ 正直、八方塞がりの状態だった。
仕事はそれなりにこなしていたし、上司からもそれを評価されていた。

 

私の置かれた状況で1週間以内に渡豪するのは厳しかった。

ただ、この機会を逃せば、私の夢はここでストップしてしまう!

最後の手段、土日を入れ、残り3日間は得意先から直行直帰したことにしよう。

それ以外に手は無い!

得意先を手伝うために、朝、得意先に直行し、そのまま直帰するということはよくあった。

ただ、精々週に1回か2回程度、土日を挟むにしても5日間誰にも会わないのは不自然だった。

不安な気持ちを抱えたまま、私は航空券を手配し、成田空港から出発してしまった!

 

シドニー空港に到着したが、大先輩は一般人が入れない税関の内側で私を待っていた。

大先輩は私の度肝を抜こうと考えたのかもしれないが、当時、私はその価値が分からなかった。

今思えば、確かな人脈を持っていなければ出来るようなことではなく、それが空港や税関の関係者なのか?警察関係者なのか?旅行代理店のしかるべき地位の人なのか? ・・・

今も私には謎であるが、とにかく大先輩はバッゲージクレーム内で私を待っていた。

 

空港から大先輩は、自分が経営するクラブに直行した。

オーストラリアには老若男女がクラブライフを楽しむ文化が根付いている。

ラグビークラブ、ラグビーリーグスクラブ、 ヨットクラブ、ゴルフクラブ、クリケットクラブ、ライフセーバーズクラブ、日本クラブ、RSL(退役軍人)クラブ・・・ 

数えたら切りが無いが、それぞれのクラブには、バーやレストラン、ダンスホールやスロットマシーン等の遊興設備があり、いわゆる社交場のような施設だった。

大先輩のクラブは「Australia New Zealand Nippon Club」というクラブだった。

クラブに到着すると、大先輩は私に言った。

「ちょっと、仕事をしてみるか?」

持参したYシャツとズボンに着替え、レストラン部門のウエイターとして立ってみた。

客のテーブルまで行くには行ったのだが、言葉が出てこない。

「・・・」 

何と言ってオーダーを取れば良いのか分からないのだ。

 

「俺はそこらのワーホリなんかとは違うんだ!」

内心、私はそんな上から目線の気持ちを持っていたに違いなかった。

そのような高慢な意識が一瞬にして崩れ落ちた瞬間だった。

ワーホリの若者達は笑顔で応対しながらオーダーを取り、それをキッチンに伝え、システム化された一連の動きをテキパキとこなしていた。

中には、笑顔で常連客を相手に会話しているスタッフもいた。

そんな彼らを前に、私の体たらくは一体なんだ! 

大先輩の思惑は理解できたが、それを跳ね返す術が私には見つからず、正直完敗だった。

 

翌日は早朝フィッシュマーケットの仕入れに連れ出され、買い付けた魚をクラブに運び入れた。

刺身用の新鮮な魚を大量に仕入れたが、豊富な魚に驚いている余裕は無かった。

そしてクラブ内の掃除を任されたが、力仕事や会話が必要ない仕事ならいくらでも頑張れた。

開店と同時に蝶ネクタイを締め、ウエイターの仕事になると、正直逃げ出したい気分だった。

帰国の前日、大先輩は私をボンダイビーチに連れて行った。

シドニーという大都会の中心地近くに、こんな美しいビーチがあるのが信じられなかった。

都会の喧騒は感じられず、真っ青な空と海と緑の芝生が眩しく、ある意味ショックだった。

土曜日でクラブは休み、大先輩はそこで大の字になって昼寝を始めた。

それが実にカッコ良かった!

正直に言おう! 私の心からニュージーランドへの想いはすっかり消えていた。

 

つづく