(4) 山の階段

 

 Dさんという50代の女性から伺ったお話です。

 

 Dさんはある里山の麓に住んでいます。二つの街に挟まれた神話にも登場する連なる峰の南端。海に面したその里山の頂上には有名な武将を祀ったお宮があり、Dさんの家のすぐ近くにある石鳥居をくぐるとそのお宮へ続く石段の登り口を仰ぎ見ることができます。山腹に沿って何度も折れ曲がるつづら折りの石段は頂上のお宮まで1159段。「いちいちごくろうさん」 そんな段数の覚え方で親しまれるその石段は観光客のみならず地元の人たちにとっての格好の散歩コースでもありました。この土地のいちご栽培農家に嫁いできたDさん。子供たちもみんな手を離れ、農家の仕事の合間にこの石段を登りお宮にお参りする時間の余裕もできた。一気に登れる段数ではありませんので、途中で何度か休憩を取りながら一段一段数を数えて登っていく。天気が良ければ眼下に広がる青い海も遥かまで見渡せる。1159段。登りきった後の達成感、爽快感はなんとも言えない。こんな素晴らしい場所が家のすぐ近くにある。嫁いできた当初はいろいろあったけれど、やはりここへ来て正解だった。Dさんは噛み締めるようにそう思いながら暇を見つけては石段登りの散歩を楽しんでいました。

 嫁いできたばかりの頃。元々感受性が豊かだったDさんは環境の大きな変化もあり心の変調に苦しむことがありました。いるはずのない物が見えてしまう。聞こえるはずのない音が聞こえてしまう。旦那さんは優しい人だったけれど、舅・姑にそんなことが知れたら大変なことになってしまう。誰にも言えず一人で抱え込んだ。怖い思いに何度も苦しんだ。やがて長男が生まれ、子育てに奮闘する毎日が始まり次第にその苦しみは消えていった。母として農家の嫁として朝から晩まで休む間もなく駆けずり回って過ごすうち、苦しかった日々は遠く消え去り記憶の片隅に埋もれるだけのものになりました。

 ある日の石段登り。いつものように段数を数えながらDさんは元気に登り始めた。体調がいい。途中で休まず一気に580段目まで。1159段のちょうど真ん中。そこでDさん、ふと立ち止まり辺りを見回した。妙な感じがする。あの感じがする。誰もいないのに、誰かに見られているような気がする。何かの気配を確かに感じる。あの感覚が、突然蘇りDさんは立ち止まったまま固まり凍りついた。引き返そう。下りて、帰ろう。振り返ろうとするけれど、体が冷たく固まり動かない。その状況で、Dさんは信じられないほどおかしなことを考えた。1159段の石段。「いちいちごくろうさん」 あれ、おかしいぞ。「ろうさん」は一体どこへ行った?「いちいちごくろうさん」ならば、115963。11万5千9百6十3段。ここはちょうど真ん中だから、57982段目。それだけの石段を下りなければ家には帰れない。そう思ったらDさん意識が遠くなり、立ったままピクリとも動けなくなった。心配した旦那さんが探しに来てくれるまで、数時間もの間、Dさんはその場に立ち続けていた。旦那さんに声を掛けられ揺さぶられ、ようやくなんとか自分を取り戻したDさん。旦那さんに連れられ無事家路に着き、その後は一人での石段登りはやめて旦那さんと二人で仲良く楽しく1159段の散歩を楽しんでいらっしゃるとのことです。

 

 そんな話を聞かせていただきました。