(6)
慎ちゃん、さっきから、夜の東名高速を走っている。車じゃなくて、自分の足で。側道との出入口から簡単に入り込めた。簡単に車道まで辿り着いた。日本平から上り東京を目指す。飛行機に乗る。別の国へ行く。
慎ちゃん、認知症だから、上りと下りどっちだか分からない。慎ちゃん、年を取り過ぎているから、足取りがよろよろと覚束ない。それでも道は続いているのだから、真夜中の闇を貫く明かりの列が真っ直ぐに延びているのだから、それは「走れ」という合図なのだ。真っ直ぐに突っ走り、飛び立つのだ。けたたましいクラクションの砲撃。ヘッドライトのフラッシュの一斉射撃。爆風を叩きつけすぐ脇をすり抜け一瞬で彼方へ消え去る轟音。次の轟音。次の爆風。クラクション、フラッシュ、爆撃、爆撃。慎ちゃん、走る。歩く速さで。走る、走る。よろける速さで。あれ、もしかして、こっちは下り?名古屋方面?東京は逆?そう気づき立ち止まったその瞬間、全部吹っ飛びなんにもなくなった。
吹っ飛ぶ前、慎ちゃんが考えていたことが分からない。分かったとしても、それは分からない。分からないから、全部が分かる。分からないから、なんでも書ける。分かったつもりで何かを書くことと分からないと知って何かを書くことと分かったつもりで何も書かないことと分からないから何も書かないことと、慎ちゃん、その真ん中で立ち止まる。吹っ飛ばされるまで、そこで立ち止まる。この世はまったく複雑だから、想像を絶することばかりだから、人の暮らしの広がりは無限だから、物語の種類は無限だから、その全部が丸々よく見える。同じ平面の上、よく見える。それが平面だと気づかないから、それを複雑だと、それを無限だと、みんなが信じて疑わないから、みんなが信じることが真実だから、それを疑ってはいけないのだから、別の平面があるということを、別の複雑が、別の無限が、別の平面の上にあるということを、それがどうしても書けないということを、それがどうしても伝わらないということを、せめて伝えたいと慎ちゃんは願いそれも無理だといつしか慎ちゃんは悟り、立ち止まり、立ち止まり、吹っ飛ばされるまで立ち止まり続けた。吹っ飛ぶことで、別の平面を伝えられるなどと慎ちゃんが思うはずがない。それはいつもの平面の上にある。みんなの平面の上にある。慎ちゃんの命などその程度のもの。みんなの命と同じ程度のもの。慎ちゃんもみんなもそれでいいのだから、みんなで立ち止まっていればいい。同じ平面の上で同じ複雑を同じ無限を生きて、死ねばいい。慎ちゃんは慎ちゃんでなくてもいい。生きても死んでも、どっちでもいい。
慎ちゃん、まだ自分から出てもいない。
了